公共の死体

安居酒屋の換気扇にこびりついた、飴色の油汚れを見つめていると、不意に吐き気がこみ上げてくることがある。あれは我々の社会そのものだ。誰も掃除しようとせず、誰も直視しようとせず、ただひたすらに堆積し続ける惰性の層。前回、どこぞの知ったかぶりが「効率」だの「熱力学的な死」だのと口走っていたが、そんな綺麗な話じゃない。我々が日々直面しているのは、もっと卑俗で、もっと救いようのない「肉の塊の調整」だ。

「公共性」や「合意形成」という言葉を聞くたびに、私は食い散らかされた残飯の山を連想する。誰もが少しずつ摘まみ、誰もが責任を取らず、最後には誰の所有物でもない悪臭だけがその場に残る。組織における意思決定とは、高尚な理性の発露などではない。それは、泥濘(ぬかるみ)の中で互いの足を引きずり合う、極めて物理的な摩擦熱の発生源に過ぎないのだ。

群像

会議室という密閉空間に充満する、あの独特の空気の重さを思い出してほしい。カビ臭いカーペット、耐用年数を過ぎたエアコンが吐き出す生ぬるい風、そして複数の人間が発する二酸化炭素と加齢臭の混合気体。あの空間において、我々は人間としての尊厳を剥奪され、単なる「確率分布の発生源」へと還元される。

A部長が口にする「長年の経験則」という名の、カビの生えた老害的バイアス。B課長がひけらかす「現場の感覚」という名の、保身のための卑屈なパラメータ。これらがリーマン多様体上にプロットされたとき、その空間は醜く歪み、ねじれ、正常な思考のための直線を拒絶する。彼らが「納得感」と呼んでいるものは、数学的に言えば、フィッシャー情報量という物差しで測った際の、各個人の「エゴの期待値」が最も妥協し合える、極めて退屈な停滞地点(サドルポイント)に過ぎない。

そこに「正義」や「情熱」といった高級な香辛料を振りかけるのはやめてくれ。胃液が逆流しそうになる。

人間が言葉を尽くして説得を試みる様は、スーパーマーケットの鮮魚コーナーで、閉店間際に半額シールを貼る店員の動向を窺う群衆の視線と同じだ。そこにあるのは「公共の利益」などではない。あるのは、隣の人間よりも1円でも得をしたい、あるいは1秒でも早くこの場から立ち去りたいという、生存本能に根ざしたドブ臭い計算だけだ。

10人も集まれば、会議室という閉鎖系はエントロピーの最終処分場と化す。誰もが「最短経路(測地線)」で結論という名の出口へ向かいたいと願っている。だが実際には、「誰が最初に発言して責任を被るか」という、千円札を賭けたチキンレースのような沈黙が空間を支配する。プロジェクターのファンの音だけが虚しく響く中、我々は互いの確率分布が重なり合い、相殺し合い、無意味なノイズとなって消えていく様をただ眺めている。この歪んだ空間を数理的に記述しようとする試み自体、ドブ川に落ちたコインが沈んでいく軌跡を計算するような徒労でしかない。

曲率

なぜ、組織の決定はこうも泥濘に足を取られたように遅いのか。それは、我々が「自尊心」という名の端数を、数理的に無視できないほど高く見積もっているからだ。

駅前の立ち食い蕎麦屋の流儀を見ろ。券売機という非情なインターフェースが、客の迷いを情報の最小単位へと強制的に圧縮する。「かけ蕎麦」というボタンを押した瞬間、契約は成立し、情報の伝達経路は極めてフラットになる。ここでは情報の曲率はゼロに等しい。そこには情緒もへったくれもないが、少なくとも「待たされる」という苦痛はない。

一方で、二郎系ラーメンの店舗における「コール」という呪文はどうだ。あれは内部のコミュニティにのみ許された、情報の超高密度圧縮であり、同時に部外者を物理的に排除するための「空間の障壁」だ。組織における「阿吽の呼吸」や「根回し」もこれと全く同じ機能を果たす。それは情報の多様体における局所的な曲率を異常に跳ね上げ、合理的な外部入力をことごとく弾き返す。

この「歪んだ空間」を維持するために、何層もの中間管理職という名のデッドウェイトが配置される。彼らの仕事は、情報を伝達することではない。情報を滞留させ、腐敗させ、その腐臭を「組織の伝統」として再定義することだ。

滑稽極まりないのは、現代のオフィスワーカーたちが、この「座っているだけで命が削られる空間」に耐えるために、すがるような思いで道具に救済を求めていることだ。例えば、重力という名の罰から逃れるために、20万円もする高機能な椅子を買い求める。メッシュ素材が腰椎を支え、ポスチャーフィットが仙骨をサポートすると謳うその玉座に沈み込み、彼らはあたかも自分たちが知的な生産活動に従事しているかのような錯覚に浸る。

笑わせてくれる。どれほど人間工学に基づいた高級な座面に尻を預けようとも、そこで行われているのは情報のゼロサムゲームであり、給料という名の「我慢料」をいかに効率よく受け取るかという、卑しい駆け引きに過ぎない。脊椎への負担を軽減したところで、脳を通過する情報量がゼロである事実に変わりはないのだ。その椅子は、思考停止した肉体を優しく包み込むための、高価な棺桶でしかない。

終焉

結局、合意形成とは「情報の殺戮」である。

多様な可能性を含んだ確率分布を、一つの結論という点へと無理やり押し込めるプロセス。その際、そこにあったはずの個々の切実な欲望や怒り、あるいは一抹の良心といったパラメータは、カルバック・ライブラー情報量の深淵へと廃棄される。公共性という名の測地線。それは論理的には最短であるはずなのに、歩けば歩くほど我々の精神を摩耗させる。なぜなら、その経路は「誰の体温も感じられない統計的平均値」という、死体安置所のような場所へ向かっているからだ。

我々は情報の海で溺れながら、必死に「自分たちは理性的だ」という虚勢を張っている。だが、その虚勢を支えるシナプスの発火も、明日支払う家賃への不安も、半額の惣菜を奪い合う殺気も、すべては情報の幾何学という冷徹な檻の中の出来事だ。人間の「納得」などという主観的なバグは、スマホの画面にこびりついた皮脂の汚れと同じ、拭き取られるべきノイズに過ぎない。

……店員、もう一杯だ。ハイボール、濃いめで。

この不条理な空間曲率の中に、せめてアルコールという名の強力な摂動を加えてくれなければ、やっていられない。脳内の情報密度を極限まで希釈し、この醜悪な幾何学から、一刻も早く逃避したいのだ。

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