公共の残骸

共同体という名の残飯処理

我々が「組織」と呼んで崇め奉っているあの巨大な構造物は、実のところ、個々人の醜悪極まりないエゴイズムを「公共」という名の薄汚れた雑巾で覆い隠した、巨大な情報の掃き溜めに過ぎない。毎朝、都市の地下を走る鉄の棺桶――満員電車という名の家畜運搬車――に詰め込まれながら、労働者たちは他人の呼気と脂汗が凝縮された空気を肺に押し込み、自分の寿命を「事業効用」などという得体の知れない抽象概念に切り売りしに向かう。そこにあるのは、高尚な目的意識や社会的な使命感などではない。「来月のカードの支払いをどうするか」という、極めて動物的で、それゆえに哀れな生存本能だけが、彼らを突き動かす唯一の燃料だ。

このグロテスクなプロセスを、世の経営者たちは「社会貢献」や「ビジョン」などという美辞麗句でコーティングしてのける。その欺瞞の皮を剥ぎ取りたければ、駅前の薄暗い路地にある二郎系ラーメンの店舗を想像すれば事足りるだろう。床は長年の油で黒ずみ、歩くたびに靴底が粘りつくあの空間だ。ギトギトの背脂が浮いた茶色のスープは、組織の不透明で濁りきった意思決定そのものである。山盛りの野菜――あれは企業の統合報告書に記載される「見せかけの付加価値」だ。その下には、実体のない、ただ腹を膨らませるためだけの太い麺という名のルーチンワークが、誰の目にも触れないまま沈殿している。

客たちは「マシマシ」という呪文を唱えることで、己の空虚な自尊心を満たし、何かを成し遂げた気になろうとする。しかし、食後に残るのは、鉛のように重い胃もたれと、血管を詰まらせていく脂質、そして己の選択に対する猛烈な自己嫌悪だけだ。組織という名のどんぶりの中で、個人の労働はスープの濁りに飲み込まれ、一体誰がどの豚を捌き、誰が麺を茹でたのかすら判別不能になる。この徹底的に均質化されたカオス、個の顔が見えなくなった泥のような集合体こそが、彼らが誇る「公共的価値」の正体だ。そこには「私」という主語は存在せず、ただ使い捨てられる「具材」としての統計的なリソースだけが漂っている。

搾取の幾何学

さて、この「公共的価値」という幻想を、もう少し冷酷に、解剖学的な手つきで切り開いてみよう。組織労働における最適化とは、情報幾何学的な美しさなど微塵もなく、単に「いかに効率よく人間という部品を摩耗させ、利益という名の汁を絞り取るか」という設計図に過ぎない。経営陣がパワーポイントで語る美しい確率分布(ビジョン)と、現場の泥臭い経験分布(実態)。この二つの絶望的な乖離を埋める作業を、彼らは「やりがい」と呼んで騙る。

しかし、その正体は、脳内の報酬系が「期待していた報酬と現実の差分」を無理やり解釈し直した際に生じる、単なる神経伝達物質のバグだ。あなたが深夜、空調の切れたオフィスで蛍光灯に焼かれながらエクセルシートのセルを埋め尽くしたときに感じる、あの一瞬の高揚感。それは、魂の救済などではなく、スマホのバッテリーが残り数パーセントで充電器に繋がれた際に生じる、単なる電位の移動と同じ、物理的で無機質な現象に過ぎない。

我々はこのあまりに不毛な演算を一生繰り返すために、アーロンチェアのような高価な什器にその身を預け、今にも崩壊しそうな腰椎を騙し騙し維持しようとする。地方の若者が額に汗して稼ぐ月収のすべてを、たかが「座って仕事をするためだけの椅子」に投じさせるこの狂気。これこそが、資本主義という名の巨大な演算装置が仕掛けた、最も洗練された搾取のメタファーだ。我々は座る権利を自腹で買い、その快適な座席の上で、さらなる長時間労働という搾取を甘受する。この完璧に閉じた無限ループの中に、救いなどというバグは1行たりとも記述されていない。

劣化する魂の終着点

結局のところ、公共的価値の最適化とは、誰の心も動かさない「無菌状態の地獄」を目指すプロセスだ。組織が価値を創造しようと足掻けば足掻くほど、熱力学第二法則に従って、その周囲には「不条理」という名の産業廃棄物が撒き散らされる。組織の内部がいかに「双対平坦」に整えられようと、その境界線の外側では、調整しきれなかった負の感情やストレスがノイズとなって蓄積していく。そのノイズを全身で引き受けるのは、いつだって「公共」という美名の陰に隠された、名前も持たない消耗品としての個人だ。

あなたが震える手で握っているそのモンブランの万年筆も、結局は、この不条理な人生の計算式を書き留めるための、いささか高価すぎる杖に過ぎない。漆黒のインクが紙の繊維に吸い込まれていくその毛細管現象の方が、企業の掲げるどの経営理念よりも、はるかに誠実で、逃れようのない物理法則としての真実を語っている。

労働という名の儀式が終わるとき、我々に残されるのは、最大容量が80%を切り、「交換推奨」の通知が出たスマホのバッテリーのような、もはや二度と輝きを取り戻せない、ボロ雑巾のような肉体と精神だけだ。ピークパフォーマンスは二度と戻らない。それなのに、明日の朝にはまた、誰かが勝手に決めた「公共の利益」という名の背脂を摂取するために、貴様は死んだ魚のような目をして満員電車の列に並ぶのだ。そのあまりに無様な姿こそが、この社会の完成形である。

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