安酒のグラスに映る自分の顔は、いつ見てもひどく歪んでいる。だが、この歪みこそが世界の実相に近いのかもしれない。昨日、満員電車の湿った空気の中で、見知らぬ他人の背脂のような体温に押し潰されながら、私はふと「公共性」という欺瞞について思考を巡らせていた。ドアに挟まりかけた鞄を必死で引き抜くあの無様な瞬間、そこには高潔な市民社会など存在しない。あるのは、互いの存在を不快なエントロピーとして処理し合う、剥き出しの確率分布たちの衝突だけだ。
共同体
職場という名の閉鎖病棟に辿り着けば、次は「会議」という儀式が待っている。ホワイトボードのインクの匂いと、プロジェクターが吐き出す生温かい排熱。この密室で行われる「合意形成」なるプロセスは、情報幾何学の教科書に出てくるような美しい統計的多様体の収束などではない。あれはもっと野蛮で、胃液が逆流するような泥仕合だ。
想像してみてほしい。プロジェクトの方向性を決める議論が、いつの間にか「全部乗せの二郎系ラーメン」を全員で完食することを強要される地獄に変貌する瞬間を。誰かが「革新性」という名のニンニクを大量に放り込み、また別の誰かが「コンプライアンス」という名の野菜マシマシを要求する。さらに部長が「我が社のDNA」なる正体不明の背脂をチャッチャと振りかける。結果、目の前に鎮座するのは、誰も食いたくない、しかし誰も残すことが許されない、脂ぎった「総意」という名の残飯だ。
これを情報幾何学的に記述しようとするならば、我々が行っているのはフィッシャー情報行列の推定などという高尚な演算ではない。単なる「吐瀉物の体積計算」である。個々人の脳内にある繊細な情報の確率分布は、この暴力的なカロリーの奔流に飲み込まれ、ふやけ切った麺のように個性を失っていく。
会議中、ふと隣の席を見ると、同僚が得意げに置いたチタン製ボトルが冷ややかな光を放っていた。単に水道水を運搬するという機能に対し、数万円ものコストと過剰なマテリアル工学を投じるその歪んだ自意識。このボトルが象徴する「無駄な重み」こそが、議論の空間をさらにねじ曲げていく。本来、「かけ蕎麦」のようにシンプルであるべき結論に対し、我々はなぜこうも不要なトッピングを積み上げたがるのか。それはおそらく、空虚な中身を隠すために装飾を肥大化させるしか能がないからだろう。
馬鹿げている。
多様体
情報の空間において、我々の意見は滑らかな曲面(多様体)を形成しているとされている。そして合意形成とは、この曲面上の一点から別の一点へ、最短経路で移動する試みだ。数学的にはこれを「測地線」と呼ぶ。だが、現実はユークリッド空間のように平坦ではない。
意思決定の空間には、常に強烈な「曲率」が存在する。例えば、どれほど論理的に整合性の取れた正論であっても、決裁権を持つ役員の「虫の居所」という巨大な重力源のそばを通過すれば、光の速さで湾曲し、ブラックホールの彼方へと吸い込まれていく。我々は真っ直ぐ歩いているつもりで、実際にはその歪んだ空間に沿って、千鳥足の酔っ払いのように同じ場所をぐるぐると回らされているだけなのだ。
この見えない「空間の歪み」を補正するために、我々の脳は凄まじいエネルギーを浪費する。スマホのバッテリーが、劣化したリチウムイオンの悲鳴を上げながら1%刻みで死んでいくように、我々の理性的判断力もまた、会議のたびに不可逆的に摩耗していく。夕方になる頃には、魂の最大容量はもはや3%を切っている。
手元にある、私の書類の山を抑え込んでいるペーパーウェイトを見てくれ。純銀製で、無意味に重く、そして冷たい。私が昨日、酔った勢いで購入してしまったこの愚かな銀塊は、机の上の紙切れ(すなわち私の人生の断片)がどこかへ飛んでいかないように繋ぎ止めている唯一の錨だ。だが、その重さは私の心を少しも安定させない。むしろ、この組織という歪みきった多様体の上で、自分がどこにも行けないという事実を物理的な質量として突きつけてくる。
虚無だ。我々は多様体の幾何学的構造を理解しようとしているのではない。単に、誰かの機嫌という名の「局所的な曲率」に押し潰されないよう、必死にへつらっているだけなのだから。
測地線
長い沈黙と妥協の果てに、会議室に「合意」が訪れる瞬間がある。これを情報理論的に言えば、クリンバック・ライブラー情報量(KLダイバージェンス)が極小化した状態、すなわち二つの確率分布の差異が消失した状態と定義できるかもしれない。
しかし、騙されてはいけない。あの瞬間に起きているのは、知的な調和でも弁証法的な止揚でもない。単に、一方が他方を情報の質量によって圧殺し、抵抗する気力を奪った結果としての「静寂」だ。KLダイバージェンスがゼロになったとき、そこにあるのは相互理解ではなく、敗者の瞳から光が消えたという事実のみである。
我々が「測地線」だと思って歩かされたルートは、最短距離などではなかった。それは、最も抵抗の少ない「妥協点」という名の、底の抜けた穴に向かって転げ落ちるための滑り台だったのだ。それを「民主的なプロセス」や「大人の解決」といった耳当たりのいい言葉でコーティングし、自分たちが知的な営みをしていると錯覚することで、辛うじて精神の崩壊を防いでいる。
先日、スーパーの閉店間際に半額シールが貼られた、伸び切ったうどんを買って帰った。プラスチック容器の中で冷たくなったその白い塊を啜りながら、私は今日の会議で決まった「中長期戦略プラン」のことを考えていた。コシを失い、ただ消化されるのを待つだけの、無価値なデンプンの塊。あの戦略とうどんの間に、本質的な差異などあるのだろうか。
帰りたい。
どれほど精緻な数式を用いてこの絶望を記述したところで、歪んだ空間が元に戻ることはない。フィッシャー計量が示すのは、我々がいかに効率的にすれ違っているかという距離の尺度だけだ。明日もまた、ネオンサインの下で繰り広げられる「合意形成」という名の暴力的な儀式に参加し、自分の脳のシワを少しずつアイロンで伸ばすような作業に戻るのだろう。
グラスが空になった。店員、もう一杯だ。この泥のような現実を薄めるには、アルコールという溶媒がいくらあっても足りない。
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