前回の講義――いや、昨晩の不毛な酒席だったか、効率化の果てに人間が辿り着くのは「無」であるという話をした記憶があるが、今日はその続きをしよう。アルコールが抜けていない頭で思考するのは骨が折れるが、シラフで直視するにはこの世界はあまりに滑稽すぎる。
「みんなで決める」という行為ほど、コストパフォーマンスの悪い労働はこの世に存在しない。組織という名の巨大な軟体動物が、意思決定という粘液を垂らしながら、何一つ決まらない会議を数時間も続ける。これを民主主義と呼ぶのは自由だが、熱力学的に見れば、単に低質な熱エネルギーを排出し、貴重な時間をエントロピー増大の肥やしにしているに過ぎない。
現実はもっと薄汚い。冷めきった泥水のようなコーヒーを啜り、窓の外を流れる湿った曇り空を眺めながら、誰かが「落とし所」という名の妥協案を提示するのを待つだけの、魂の切り売りだ。そこに生産性など欠片もない。
倦怠
ビジネスにおける合意形成とは、結局のところ「誰が一番先に折れるか」という我慢比べだ。馬鹿みたいに、誰もが正解を知っているふりをする。新事業のプロットを立てても、法務が重箱の隅を突き、財務が小銭を惜しみ、営業が現場の愚痴を盾に居座る。この不毛なプロセスを情報の伝達と呼ぶのは、ドブ川のせせらぎを交響曲と呼ぶようなものだ。これは単なる信号の減衰であり、個人の情熱という貴重なガソリンを、官僚機構という錆びついたエンジンで無駄に燃焼させているに過ぎない。
我々の社会的な合意形成を、情報幾何学などという大層な看板で眺めてみれば、その滑稽さがより鮮明になる。個々の意見とは、統計的な空間に漂う「確率分布」の一点だ。合意とは、それらバラバラな点を一つの代表点に収束させる作業だが、悲しいかな、人間の脳というデバイスは、この計算を「昨日の晩飯の不満」や「住宅ローンの焦り」といったノイズまみれのOSで実行している。
例えばだ、駅前の立ち食いのかけ蕎麦で済ませたい男と、脂ぎった二郎系ラーメンを渇望する男が、妥協案として「中間にあるファミレス」を選ぶ場面を想像してみろ。このとき、両者の満足度のフィッシャー情報行列は歪み、どちらも幸福を感じない特異点へと墜落する。これが公共性の正体だ。社会的な「最大公約数」とは、個人の情熱を去勢した後に残る、最も味気ない、冷え切った残りカスのことである。ドリンクバーの薄めたオレンジジュースのような「合意」を飲み干し、我々は互いに「これでよかったのだ」と自分を騙す。
距離
情報幾何学において、二つの意見の相違は「距離」として計測される。カルバック・ライブラー情報量(KLダイバージェンス)だ。Aという意見とBという意見がどれだけ離れているか。しかし、この計量は残酷なほどに非対称だ。権力者の椅子にふんぞり返っている人間から見た「庶民の苦悩」までの距離と、生活保護の申請書を震えながら書く人間から見た「権力の壁」までの距離は、決して等しくない。この空間は、金と声の大きさによって、光すら曲がるほどに歪んでいる。
意思決定の計量構造とは、この非対称な空間を無理やり平坦なユークリッド空間に押し込め、一律の「一票」や「一案」として処理する暴力である。AIガバナンスが目指す「透明性」や「公正性」という美辞麗句は、この空間の致命的な曲率を無視した、あまりに乱暴な近似に過ぎない。アルゴリズムが算出した「最適解」が、現場の人間にとっては「死刑宣告」に等しいことも珍しくない。数式上の最短距離は、現実の泥沼においては、しばしば遭難ルートとなる。
そもそも、人間が合意に至ったと錯覚するのは、神経科学的に言えば、前頭前野が「もう考えるのが面倒だ、早く帰って酒を飲みたい」とシャットダウンした合図である。スマホのバッテリー劣化と同じで、我々の意思決定リソースは有限だ。議論が三時間を超える頃には、思考の解像度は、最安値のウェブカメラ並みに低下する。議事録を取る手の震えが止まり、最終的には「とりあえずこれでいいんじゃないか」という放り出しが「総意」という名に変換される。
この劣化した脳を、異常なまでに高価なアーロンチェアに預けて、20万円以上もする椅子に座りながら「生産性の向上」を議論しているのだから、滑稽を通り越して哲学的な趣すらある。網目状の背もたれに自分の無能を預け、機能性という名の免罪符を買っている。そんな高級な椅子に座ったところで、出力される結論が立ち食い蕎麦屋の割り箸の割り方以下の価値しかないことに、なぜ誰も気づかないのか。組織の歯車である自分を、高機能なパーツだと勘違いするための、あまりに高額なコスプレ衣装だ。そのメッシュが受け止めているのは、お前の腰ではなく、決断から逃げ出したいという惰弱な精神の重みだ。
限界
AIによるガバナンスが直面する数理的限界。それは「公共性」という定義不能なパラメータを損失関数(Loss Function)に組み込めないことにある。公共性とは、数学的な最適値ではない。それはむしろ、最適化から零れ落ちた「無駄」や「矛盾」、そして「個人的な恨み」の総体なのだ。機械にこれを教えることは、石像に愛を教えるよりも困難だ。
数理モデルが導き出す「正しい答え」は、しばしば社会的な「納得」と対立する。情報幾何学的な最短経路が、人間に特有の非合理な感情の森を突っ切る時、システムは必ず炎上し、その灰が責任者の頭に降りかかる。アルゴリズムには「空気を読む」という、計算資源の無駄遣いとしか思えない高度な隠喩的処理が実装できない。会議室に漂う重苦しい沈黙や、上司の眉間の皺に込められた意味を、ビットの羅列に変換することは不可能なのだ。
結局のところ、公共性とは計算不能な「バグ」を愛で、それを「慈悲」や「配慮」と呼び換える欺瞞の体系に近い。我々がAIにガバナンスを委ねようとするのは、責任を負うことから逃げ、自分の手が汚れるのを避けたいという卑屈な欲望の表れだ。数式に罪をなすりつけ、機械に冷徹な審判を期待する。だが、その数式を設計したのは、二郎系ラーメンと立ち食い蕎麦の区別もつかない、我々という不完全で、傲慢で、ひどく疲れ切った情報体なのだ。
意思決定の計量構造をどれほど精緻化しても、そこには常に「主観」という名のゴーストが宿る。計算機がどれだけ高速に多様体上の最短ルートを計算しようとも、最後にボタンを押す指が震えている限り、それはガバナンスではなく、単なる博打だ。我々はその博打のチップとして、自分の人生を賭けているに過ぎない。
さあ、話は終わりだ。この後の飲み会の店を、また「多角的な視点」とやらで一時間かけて決めることにしよう。もちろん、誰もが納得する、世界で一番不味い、無難な店をな。
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