幾何学的徒労

世の中はまだ、人間を単なる演算資源として扱いながら、その「質」さえ向上させれば救いがあるという幻想に縋り付いているらしい。いわゆる「リスキリング」というやつだ。死臭の漂うオフィスで、昨日までExcelのセル結合に命を懸けていた中高年が、突如としてPythonや機械学習の教本を渡される。その光景は、三十年かけ蕎麦しか茹でてこなかった老舗の店主が、客に命じられて突然二郎系ラーメンの「アブラ・カラメ・マシマシ」を完璧にこなそうとする滑稽さに等しい。不潔なエプロンを締め直し、震える手で豚の塊を切り分けたところで、丼の中に生成されるのは情報の残飯だ。無理があるのだ。物理的にも、幾何学的にも、そして生理的にも。

労働

そもそも「労働価値」などという言葉には、反吐が出るほど情緒的なバイアスがかかりすぎている。我々が満員電車で押し潰され、深夜の残業で擦り減らす精神を、何か尊い犠牲のように捉えるのは、生物学的な生存本能が生み出した哀れな「バグ」に過ぎない。熱力学的に見れば、それは単なる自由エネルギーの散逸であり、宇宙のエントロピー増大に加担しているだけの無駄な抵抗だ。汗水たらして働こうが、サボろうが、熱平衡に向かう宇宙の意志の前では誤差にもならない。

事業組織において人間が提供する価値とは、突き詰めれば「情報の変換効率」でしかない。市場という名のドブ川から流れてくるノイズだらけの入力信号を受け取り、利益という名のわずばかりの秩序ある出力へと変換する。このプロセスにおいて、個人の「スキル」とは、ある確率分布から別の確率分布へと状態を遷移させるための、単なる写像(マッピング)である。

ところが、経営層はこの「写像」のコストを完全に見誤っている。彼らは「努力」や「根性」という前近代的な精神論で、情報の欠損を埋められると本気で信じている。スマホのバッテリーが劣化し、100%充電したはずが動画一本再生しただけで事切れる絶望を知りながら、なぜか人間の脳というハードウェアだけは、OSのアップデートだけで無限に延命できると思い込んでいるのだ。毎朝、疲労で霞む眼を擦りながらネイチャーメイドを流し込み、肝機能を騙し騙し動かしている社畜の群れに、これ以上の演算精度を求めるのは酷というものだろう。合成されたビタミン剤でニューロンの発火効率が劇的に上がるなら、誰も苦労はしない。

幾何

ここで、情報幾何学の冷徹な視点を導入し、この絶望を数式で記述してみよう。スキルというものを「統計モデル(パラメーター空間)」として捉えると、我々の能力はフィッシャー情報行列というメトリック(計量)によって規定されるリーマン多様体の上に浮かび上がる。

フィッシャー情報行列とは、あるパラメーターが少し変化したときに、どれだけ情報の分布が変わるかを示す、いわば「情報の感度」だ。これによって定義される「曲率」こそが、スキル移転の難易度の正体である。確率分布の空間は平坦ではない。歪んでいるのだ。

曲率が極めて高い領域、つまり「情報の崖」に立たされている労働者に、新しい概念を教え込むことは、平坦な道を歩くのとはわけが違う。それは、重力に逆らって急勾配を這い上がるエネルギー消費を強いる行為だ。もっと卑近な例で言えば、真夏の満員電車で、他人の脂ぎった頭が自分の顎の下に食い込み、物理的に身動きが取れない不快な角度を維持したまま、微積分の問題を解けと命じられるようなものだ。情報の幾何学的制約は、肉体的な苦痛と等価である。そこに「やる気」が入る余地などない。

これを直感的に理解できない人間が、形から入ろうとする。高級なアーロンチェアを買いさえすれば、腰痛が消えて生産性が無限に上がると盲信する中堅管理職の悲哀がそこにある。20万円もするメッシュの椅子にだらしない尻を乗せたところで、脊椎の曲率(猫背)という幾何学的制約からは逃れられない。道具に金をかける前に、自身の骨格という情報の歪みを直視すべきなのだが、彼らは決まって「形」から入り、そして挫折する。座り心地が良くなった分、居眠りの効率が上がるだけだ。馬鹿みたいに。

輸送

さて、個人の努力によるスキルの習得が、幾何学的に不可能に近いのであれば、組織に残された道は「再配置」しかない。ここで登場するのが最適輸送理論(Optimal Transport)だ。

かつてガスパール・モンジュやレオニート・カントロヴィッチが夢想したこの理論は、ある地点にある「砂の山(現在のスキル分布)」を、最小の労力で別の地点の「穴(市場の要求)」へ移動させるにはどうすればいいかを解き明かす。労働市場における「人材の適材適所」とは、数学的にはワッサースタイン距離(地ならし距離)を最小化する最適輸送プランの策定に他ならない。

しかし、現実の組織がやっているのは洗練された「輸送」ではなく、ただの暴力的な「放り込み」だ。

営業職という名の砂山を、エンジニアという名の穴に無理やり詰め込もうとする。その過程で、砂(人間)の多くは道端にこぼれ落ち、風に吹かれて霧散する。あるいは、無理な圧縮によって摩擦熱が生じ、組織全体を焼き尽くす。そもそも、移動させるべき「砂」自体が、長年のデスクワークと安酒、そして諦念によって泥濘化しており、まともにスコップですくえる状態にないのだ。ベトベトした粘土質の塊を、精密機械の隙間にねじ込めばどうなるか。火を見るよりも明らかだろう。

我々は、自分たちが自由意志を持ってキャリアを選んでいると思いたい。だが、実際には情報空間の曲率に翻弄され、ポテンシャルの谷間に向かって転がり落ちているだけの粒子に過ぎない。ある統計分布から別の分布へ、効率的に「輸送」されることを待つ、無機質な貨物。かつて哲学は、労働を自己実現の手段と定義した。だが、情報幾何学はそれを、確率密度関数のパラメーター調整作業と定義し直す。情熱? 志? そんなものは、ニューラルネットワークの重みを更新する際の「学習率(ラーニングレート)」を一時的に上げるための、単なる化学的なノイズ、脳内物質の一時的な揺らぎに過ぎない。

居酒屋のカウンターで、隣の若者が「自分探し」のために資格の勉強をしている。彼は自分が、フィッシャー情報行列という見えない壁にぶつかり、エネルギーを熱として浪費していることに気づいていない。私は冷めた焼き鳥の脂が白く固まっていくのを眺めながら、彼の背後に広がる多次元空間の曲率を計算する。その答えは、いつも残酷なほどにゼロに近い。最適輸送のコストは、常に我々の給与を上回る。その不均衡を埋めているのは、我々の「諦め」という名のエントロピー増大だけだ。

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です