前回の講義では、我々がいかにして「余暇」という名の、賞味期限の切れた安物の缶詰を貪るように時間をドブへ捨てているかを論じた。だが、その対極にある「労働」という営みは、さらに救いようのない喜劇だ。店員、この薄ら寒いハイボールに、さらに安物のウィスキーを足してくれ。氷が溶けて、もはや水道水と変わらん。
世の啓蒙家どもは「成長」だの「自己実現」だのと、耳を疑うような寝言を抜かしている。連中は人間が自由意志を持って高みへ登る登山家だと信じているようだが、その実態は、不確実性という名の泥沼から、わずかな小銭を拾い上げるために最適化された「情報の回収機」に過ぎない。今日はその労働の欺瞞について、少しばかり幾何学的なメスを入れて解剖してやろう。
泥濘の多様体
労働という名の地図を想像してみろ。そこは、ビジネス書が描くような整地された平坦な野原などではない。複雑にねじれ、いたるところに落とし穴が口を開けた、忌々しい「労働という名のドブ板通り」だ。我々が「職能を身につける」と称して日々繰り返しているのは、この歪んだ地面を這いずり回り、どの角を曲がれば最も効率よく上司の機嫌を損ねず、かつ自分の胃痛を最小限に抑えられるかを探る、極めて卑俗な幾何学的計算である。
統計力学的に言えば、労働とは本質的に「環境から情報を抽出し、自己の内部状態(スキルセット)の確率分布を更新する作業」だ。だが、この職能空間の「多様体」は、あまりに歪んでいる。初心者が仕事で失敗するのは、単にその空間の局所的な「曲率」を読み違えているからだ。これは、混雑したスーパーのレジで、どの列が最も早く進むかを計算し、並んだ列の前の客が小銭を落としたりクーポンを使い始めたりした時の、あの脳が焼き切れるような苛立ちに似ている。我々の精神資源は、こうした「無駄な曲率(予期せぬトラブル)」に直面するたびに、摩擦熱として虚空へ消えていく。
スマホのバッテリーが劣化した時のことを思い出せ。充電100%から一気に20%まで落ちるあの絶望感。未知の業務領域に踏み込む我々の認知エネルギーも同様だ。新しいスキルを習得するということは、この見えない曲率に逆らってニューロンを焼き繋ぐ行為であり、それは物理的な「摩耗」を伴う。
かつて、職人の技を盗むには十年かかると言われた。それは、情報のサンプリング密度が極端に低く、かつ地面が今よりずっとぬかるんでいた時代の話だ。彼らは、出汁の味の微細な変化を覚えるために、文字通り神経を磨り潰し、身体を摩耗させてきた。その非効率さこそが、かつては「人間性」と呼ばれていたバグの正体だ。だというのに、昨今の「思考を代行する冷徹な計算機」の登場はどうだ。
連中は、我々が十年かけて這いずり回ったドブ板通りを、一瞬でスキャンし、最短のルートを提示しやがる。だが、それはショートカットではない。単に、人間が歩むべき地面そのものを平坦に押し潰しているだけだ。結果として、我々は歩き方を忘れた軟弱な歩行者となり、提示された最短の測地線を、ただ感情を殺してなぞるだけの部品に成り下がる。
虚無への最短経路
本来、習熟とは苦痛を伴うものだ。肉体的なフィードバックがあってこそ、情報は脳に刻まれる。例えば、指にタコを作り、インクで袖を汚しながら、あの忌々しい15万円もするモンブランの万年筆を握りしめ、一文字一文字を呪いのように書き込む行為を想像してほしい。あんな成金趣味の筆記具を持ったところで、書かれる内容が三流の愚痴であれば、それは金の無駄どころか資源に対する冒涜ですらある。だが、その「書く」という物理的な抵抗、ペン先が紙を削る摩擦こそが、かつての労働における「距離」の定義だった。
しかし、自動計算機との協働は、この摩擦を根こそぎ奪い去る。入力すれば、出力される。そこには「迷い」という名の幾何学的な余裕が存在しない。職能の多様体は、計算機のアルゴリズムによって強制的に正規化され、あらゆる個性の特異点は滑らかに削り取られる。我々が歩まされるのは、誰が歩いても同じ結果に辿り着く、無機質なコンクリートの滑走路だ。
この「情報の平坦化」こそが、現代の労働者が抱える、あの反吐が出るような徒労感の正体だ。かつての仕事には、多様体のあちこちに「自分にしか見えない景色」があった。そこは他者が入り込めない、自分だけの歪んだ空間(情報の非対称性)だった。しかし今はどうだ。あらゆる知見は計量され、最適化の波に呑まれ、誰もが同じ最短経路を歩かされる。個性が死ぬのではない。個性が存在する「余地(曲率)」そのものが、効率化という名のローラーで圧殺されているのだ。
やってられん。
我々の脳は、この急激な平坦化に適応できていない。ドーパミン報酬系は、未だに「昨日より1ミリ泥沼を深く掘れた」という、あの前時代的な喜びに最適化されたままだ。それなのに、環境は「一瞬で砂漠を横断しろ」と要求してくる。この速度の乖離が、人間の精神という脆い基板を、修復不可能なまでにクラッシュさせる。
特異点の蒸発
もし、この労働の幾何学に終着点があるとすれば、それは人間が完全に「解」の外部へと放り出される瞬間だろう。
高度な推論エンジンが、あらゆる職能の曲率を完全に記述し、最適なパラメーターを瞬時に提示するようになった時、人間の「試行錯誤」という名のバグは、もはやノイズとしてすら許容されなくなる。フィッシャー情報量が最大化される地点において、人間的な「意味」は完全に蒸発し、そこには純粋な「関数」の残骸だけが転がることになる。
我々は今、その特異点の入り口で、必死に「自分にしかできない泥臭い仕事」を探している。だが、そんなものはもう、どこにも落ちてはいない。計算機に記述できないものは、この物理世界においては存在しないも同義だからだ。
帰らせてくれ。
結局のところ、我々に残された最後の抵抗は、この美しく整備された最短経路をあえて外れ、泥溜まりに飛び込むという、論理的に説明のつかない「無駄な行為」を繰り返すことだけなのかもしれない。誰も読み返さないような、無駄に分厚い革の手帳に、わざわざ重たい万年筆で、誰にも理解されない恨み言を書き連ねる。そんな、熱力学的に見れば完全なエネルギーの損失、完全なゴミのような時間の中にしか、人間という名の出来損ないの居場所は残されていないのだ。
さて、ハイボールは完全に氷が溶け、ただの冷たい不味い水になった。このグラスの中のエントロピーが最大に達し、すべてが均質化したところで、今日の不愉快な講義を終わりにしよう。勘定だ。ああ、領収書は「消耗品費」で落としておけ。もっとも、この磨り減った私の神経を「消耗品」として計上できるほど、この社会の会計システムに幾何学的な余裕があればの話だが。
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