エントロピーの泥沼にて
冷え切ったジョッキの表面を、重力に負けた水滴が不規則な軌道を描いて滑り落ちていく。その無秩序な運動を見ていると、我々が日中、必死の形相で維持しようとしている「組織」というものの滑稽さが際立ってくる。今日はどうも肝臓の調子が悪い。あるいは、これは肝臓ではなく、魂が酸化している音なのかもしれない。
そもそも「組織」という存在自体が、宇宙の絶対的な憲法である「エントロピー増大の法則」に対する、きわめて傲慢で無益な反逆である。物理学的に言えば、閉じた系において事物は必ず無秩序へと向かう。整理されたデスクは散らかり、熱いコーヒーはぬるくなり、情熱に満ちた新入社員は死んだ魚のような目をした中間管理職へと変貌する。これは個人の資質の問題ではない。熱力学的な必然だ。
秩序という名の排熱
経営者たちは好んで「一丸となって」や「阿吽の呼吸」という美談を口にする。だが、生物物理学的な視点からその言葉を解剖すれば、そこには吐き気を催すほどのエネルギー浪費が露呈する。個体が集まり、一つの秩序ある方向へ進もうとする行為は、内部のエントロピーを減少させる代わりに、外部へ莫大な「熱」を捨てる行為に他ならない。
諸君も経験があるだろう。出勤前の駅のホームで、誰かが吐き捨てたガムを不運にも踏んでしまった時の、あの粘着質な不快感を。靴底から剥がそうとすればするほど糸を引き、歩くたびに「チャッ、チャッ」と間抜けな音を立てて神経を逆撫でする。組織における「部署間の調整」や「定例会議」とは、まさにこのガムのようなものだ。
我々は、たかだか一行のメールで済む案件のために、何十人もの人間を会議室という密閉空間に押し込め、呼吸によって二酸化炭素濃度を上げ、無意味な合意形成という名の摩擦熱を発生させる。そうして生み出された秩序は、踏まれたガムのように誰かの足元にこびりつき、組織全体の歩みを物理的に阻害するだけだ。
昼食時に立ち食い蕎麦屋で丼を覗き込んでみたまえ。汁に浮かぶ天ぷらの油滴が、最初は分離していながら、時間とともに汁と混ざり合い、境界が曖昧な、ぬるく濁ったカオスへと至る様を。あれこそが組織の未来図だ。何もしなければ、責任の所在は霧散し、権限は溶解し、最終的には「誰も何も決めていないが、全員が疲弊している」という熱死の状態に陥る。
散逸構造とコンビニおにぎり
イリヤ・プリゴジンは、平衡から遠く離れた状態で、外部とエネルギーをやり取りすることで維持される秩序を「散逸構造」と呼んだ。現代の企業組織とは、まさにこの危ういバランスの上に成り立つ巨大な浪費装置だ。
我々サラリーマンという構成員は、毎朝コンビニで添加物まみれの安いおにぎりを胃に流し込み、そのわずかな化学エネルギーを、誰も読まない稟議書のフォント調整や、エクセルの罫線を1ピクセルずらす作業に費やしている。これは、劣化したスマートフォンのバッテリーを使い続ける苦行に等しい。充電ケーブル(給与)に繋がれていなければ起動すらできず、そのくせ本体(肉体)は火傷するほど熱を持ち、画面には常に「進捗率1%」という絶望的な数字が表示されている。
この虚しいエネルギー収支の不均衡を誤魔化すために、なぜかビジネスマンは道具という名の呪物にすがりたがる。情報の密度と媒体の質が釣り合っていないのだ。以前、隣の席の男が驚くほど高価な革のシステム手帳をこれ見よがしに広げていたが、そこに書き込まれていたのは「帰りに牛乳を買う」という、あまりに卑近なタスクだった。フェラーリで近所のたばこ屋に10円ガムを買いに行くような、その経済的エントロピーの歪みこそが、我々の理性が機能不全を起こしている何よりの証拠である。
意思決定の焼却炉
組織における意思決定プロセスとは、情報理論的に言えば「情報の焼却処分」である。現場から上がってくる生々しいノイズ(事実)は、上層部という名のフィルターを通過するたびに、彼らの耳に心地よい周波数へと変換される。
複雑な現実は「要約」という名のシュレッダーにかけられ、文脈は切り捨てられ、熱量は奪われる。最終的に役員会議のテーブルに乗る頃には、それは「前向きに善処する」という、情報量ゼロの灰になっている。我々はこの灰を「合意」と呼び、大切にファイリングして神棚に祀るのだ。
本来、健全な組織とは開放系であり、外部からの批判的な「冷たい風」を取り込むことで内部の熱を排出せねばならない。だが、多くの組織は自らを断熱性の高い魔法瓶に改造してしまう。異論を排除し、内部だけで熱を回し続けた結果、中のコーヒーは腐敗し、蓋を開ければ異臭を放つ猛毒と化している。
腰が痛い。
安物のオフィスチェアに座り続け、私の腰椎は悲鳴を上げている。だが、だからといって人間工学に基づいた高級チェアを買ったところで、何が変わるというのか。座るだけで宇宙の真理に到達できるわけでもない。ただの尻のクッションに新卒の月給ほどの値を付け、それを経費で落とすことに快感を覚えるようになったら、それはもう人間としての感性が熱死した証拠だ。
もう、何も決めたくない。今夜のつまみを枝豆にするか冷奴にするかという意思決定すら、私の脳神経には過大な負荷だ。組織が存続するためには意思決定を止めてはならないと言うが、果たしてそれは真実か? むしろ、すべての組織が活動を停止し、等しく宇宙の背景放射に溶け込む静寂こそが、我々が真に求める「安息」ではないのか。
ビールがぬるい。
店員がラストオーダーを告げに来た。これもまた一つの不可逆な時間の流れだ。私は残った液体を飲み干し、現実という名の物理世界へ戻らねばならない。とりあえず、皿の上に散らばった枝豆の殻を数えることにする。そこには、我々の組織図よりも遥かに誠実で、数学的に美しいカオスが存在しているからだ。
帰りたい。
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