前回、我々がいかにして「効率化ツール」という名のデジタルな墓標に、自らの貴重な時間を埋葬しているかについて吐き捨てたのを覚えているだろうか。あの後、深夜の国道沿いを歩きながら、街灯に群がる羽虫の不規則な軌道を眺めて考えた。結局のところ、我々が執着している「組織」という概念そのものが、実は巨大な汚物処理槽のような、熱力学的浪費の装置に過ぎないのではないかという疑念だ。
おい、店員。このハイボール、水みたいに薄いぞ。氷ばかり詰め込みやがって。それと、この突き出しの冷奴、醤油をかけすぎて食えたもんじゃない。黒く染まった豆腐の角が崩れ落ちていくのを見ていると、気が滅入ってくる。だが、一度注いだ醤油を豆乳に戻すことはできない。覆水盆に返らず。宇宙は常に、不可逆的に、最悪の方向へと崩壊し続けている。
散逸:腐りゆく肉体と、シュレッダーの塵
事業組織というものは、小難しい経営学の理屈を剥ぎ取れば、物理学者イリヤ・プリゴジンが提唱した「散逸構造」そのものだ。いや、もっと正確に言えば、エネルギーを食い散らかして形を保つ巨大な寄生体だ。外部から資本や労働力という名の栄養を貪り、内部の体裁を整える。その代償として、吐き気がするほどのストレス、無駄な会議、そしてシュレッダーのゴミ袋から溢れ出す無機質な紙の死骸を、外部へと垂れ流し続ける。
諸君、労働とは、この熱力学的死への無駄な抵抗運動に他ならない。毎朝、満員電車という名の家畜運搬車に詰め込まれ、他人の脂ぎった体温と湿った息にまみれて精神を摩耗させながら、牢獄(オフィス)へと向かう。隣の男のイヤホンから漏れるシャカシャカという不快な高音、背中に押し付けられる誰かの鞄の金具。それらはすべて、組織という構造体を維持するための「燃料」として我々が支払うコストだ。
これを「自己実現」だの「社会貢献」だのといった甘美なレトリックでコーティングするのは、賞味期限切れの激安スーパーの惣菜に、たっぷりとマヨネーズをかけて腐敗臭を誤魔化す行為と何ら変わらない。胃に入れば同じことだと言わんばかりの、浅ましい欺瞞だ。
馬鹿みたいに。
実際、組織の内部で起きていることの九割は、情報の攪拌、つまりは「かき回す」だけの作業だ。誰かが決めた無意味な作法に従って、右のフォルダにある電子の塵を左のフォルダに移す。エクセルのセルを結合したり解除したり、フォントサイズを1ポイント弄ったり。このプロセスで発生する「価値」など、せいぜい二郎系ラーメンの底に沈んだ、食う価値もない背脂程度の粘性しか持たない。
しかし、この無意味な攪拌こそが、システムが平衡状態(つまりは死)に陥るのを防いでいるのだ。止まれば腐る。だから我々は、死ぬまでこの汚泥をかき回し続けなければならない。換気扇の回っていない喫煙室のような、淀んだ空気を循環させるためだけに。
予測:脳に刺さった棘としてのコミュニケーション
さて、ここで少しばかり知的なスパイスをふりかけよう。神経科学者カール・フリストンの「自由エネルギー原理(FEP)」をご存知か。生物学的なシステムは、自らの内部モデルと外部世界との乖離、すなわち「サプライズ(自由エネルギー)」を最小化するように振る舞うという理論だ。
これを組織論というドブ川に沈めると、恐ろしいほどに冷徹で卑屈な景色が見えてくる。上司が部下に「進捗はどうだ」と執拗に問うとき、彼はプロジェクトの成功を祈っているのではない。自分の脳内にある「予定調和な世界」と、目の前の「無能な部下という現実」との乖離を埋め、自らの脳の不快な計算コストを下げようとしているだけなのだ。組織における「コミュニケーション」の正体は、この予測誤差という名の、脳に刺さった棘を互いに抜き合う、醜い相互扶助に過ぎない。
我々は、未知という名の恐怖を、エクセルという名の鎮静剤で無理やり抑え込もうとする。空調の音がうるさい会議室に集まり、誰も信じていない中期経営計画を練り上げるのは、神経科学的に見れば、集団的な「変分自由エネルギー」の最小化プロセスだ。「来期はV字回復」などという妄言を吐き、未来を予測可能なものだと錯覚することで、我々の脆弱なニューロンは束の間の安息を得る。
そのために、インクの出が悪い安物のボールペンで、実現するはずもない予定を手帳に殴り書きする。コンビニで買った100円のプラスチックの管から滲み出る黒い液体で、自分の人生の不確実性を封じ込めようとするその執着。滑稽だとは思わないか。
あるいは、腰痛をかばいながら高機能なオフィスチェアに座り、血行を悪くしながらディスプレイを睨みつける。数万円もするメッシュとウレタンの塊に身体を預け、自分がシステムの管理者であるかのように振る舞うが、実際にはその椅子こそが、あなたをデスクに縛り付ける拘束具だ。その椅子を作った工場の労働者も、まさか自分の作品が「エリート気取りの不安」を支えるためだけに使われるとは夢にも思わなかっただろう。
なんだこれ。反吐が出る。
創発:バグとしての価値、あるいは断末魔
しかし、最も醜悪で、かつ滑稽なのは「創発」という現象だ。熱力学的な散逸と、自由エネルギーの最小化。この二つの力が、ドブ川の境界線上でせめぎ合う時、稀に「創発」と呼ばれるバグが発生する。組織がガチガチの秩序で窒息せず、かといって完全なカオスにもなりきっていない、「中途半端に腐った」状態。そこで、個々の無能な構成員の意図を超えた「価値」が、文字通り湧き出してくることがある。
これを経営学者は「イノベーション」と呼んで神格化するが、数理的に見れば単なる相転移だ。排水溝に溜まった髪の毛がある瞬間から巨大な塊となって水の流れを止めるように、あるいは劣化したスマートフォンのバッテリーが膨張し、内部から筐体を破壊して液晶画面を押し上げるように、システムがある臨界点を超えたときに生じる不可避な事故だ。
そこには「人間の意志」など、1ミリも介在する余地はない。我々が「自分が価値を生み出した」と感じて高揚するのは、単なる事後的な合理化、すなわち神経系の誤作動だ。実際には、組織という名の散逸構造が、外部環境との帳尻を合わせるために、あなたの使い古された肉体と脳を、ただの触媒として使い潰したに過ぎない。
労働による自由の獲得? 笑わせないでほしい。それは、充電残量が1%のときに、必死で画面の輝度を下げて延命を図るような、虚しい抵抗だ。どれだけ足掻いても、画面はプツリと消え、黒い鏡となってあなたの疲れた顔を映し出すだけだ。
帰りたい。
結局、我々が「組織」や「キャリア」について語るとき、そこで完全に見落とされているのは「熱のゆくえ」だ。どれほど洗練された理論を構築しようとも、どれほど高度な数式で組織を記述しようとも、デスクの隅に溜まった埃や、キーボードの隙間に挟まったお菓子のカス、同僚の濁った死んだ魚のような目、そして金曜の夜の駅前で吐き散らされる嘔吐物という名の熱排気は消えない。
むしろ、その不快な熱こそが、我々が生きているという唯一の、そして最悪の証明なのかもしれない。価値などという実体のない幻想を追い求めるよりも、この不毛なエネルギー代謝そのものを、冷ややかに、しかし徹底した嫌悪感を持って観察することだ。
おっと、ハイボールがもう空だ。氷が溶けて、グラスの底でカランと情けない音を立てている。薄まった液体が、グラスの結露と混ざり合ってテーブルを濡らす。これもまた、避けられない物理法則の結果だ。
次は、もっと濃い奴を頼むとしよう。この世界の予測誤差を、アルコールという名のノイズで塗りつぶし、自らの脳そのものを散逸させるために。
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