我々が日々、満員電車に揺られ、オフィスという名の巨大な飼育箱の中で行っている「労働」という現象について、そろそろ物理学的に正直な定義を下すべき時が来ているのではないか。「働き方改革」だの「生産性向上」だのといった、およそ実体のない呪文が経典のように唱えられて久しいが、あれは要するに、完全に伸びきって冷え切った立ち食いそばに、激辛の七味唐辛子を親の敵のように振りかけて「これは刺激的なイタリアンだ」と言い張るような、涙ぐましいカテゴリーエラーに過ぎない。
我々が必死の形相で生み出しているものの本質は、価値の創造などという高尚なものでは断じてない。それは単なる情報の攪拌であり、より厳密に熱力学的な言葉を借りるなら、組織という名のシステムが崩壊(エントロピー増大)を免れるために、外部から「意味」らしきものを摂取し、代わりに「徒労」という名の莫大な熱を排出し続ける、非平衡なプロセスそのものなのだ。さあ、まずはこの冷めた焼き鳥の串でもいじりながら、我々の人生がいかにして熱エネルギーへと変換され、そして霧散していくのか、その哀れな履歴を眺めてみようじゃないか。
泥濘の摩擦
組織とは、放っておけば必ず無秩序へと向かう。これを熱力学第二法則というが、会社組織におけるそれは「誰も読んでいない日報」や「目的そのものが忘却された定例会議」として結実する。人間が三人集まれば、そこには必ず情報の摩擦が生じる。物理法則として避けられない現象だ。この摩擦係数を下げるために、我々はDXだの自動化だのといった潤滑油を注ぎ込むわけだが、これがまた滑稽な結果を招く。
思い出してみてほしい。かつて電子メールが導入されたとき、我々は「これで仕事が速くなる」と信じた。だが現実はどうだ? 返信速度が上がった分だけ、受信するメールの総量が指数関数的に増大しただけではないか。スマホのバッテリー劣化を想像すればいい。効率を求めて急速充電を繰り返せば、化学反応の副産物として熱がこもり、結局はデバイスの寿命を縮める。組織も全く同じだ。演算処理の怪物(AI)によってドキュメントの生成速度が極限まで高まれば、その分だけ人間が処理しなければならない「確認作業」という名の泥水も増水する。情報のバケツリレーがどれほど高速化されたところで、バケツの中身が汚泥であることに変わりはないのだ。
チャットツールの通知音が鳴るたびに、我々の脳内で微量なコルチゾールが分泌される。パブロフの犬ならぬ、パブロフの社畜だ。眼球の裏側に蓄積する鈍痛、肩甲骨の間にへばりつく鉛のような重み。これらは全て、情報の高速回転によって生じた摩擦熱が、我々の肉体という抵抗器を焼き切ろうとしている証左である。結局、我々は速く動けば動くほど、より多くの熱を周囲に撒き散らしているだけなのだ。これを「成長」と呼ぶのは、二郎系ラーメンのヤサイマシマシ・アブラ・カラメを「完全栄養食」と呼ぶのに等しい、狂気じみた強弁である。
ああ、腰が痛い。
排水溝の秩序
ノーベル賞物理学者のイリヤ・プリゴジンは、外部からエネルギーを取り込み、エントロピーを外部に捨てることで維持される動的な秩序を「散逸構造」と呼んだ。味噌汁の椀の中で踊る対流の渦や、台風、そして生命そのものがこれに当たる。しかし、現代の組織人にとって、この高尚な概念はもっと卑近で惨めな光景として現れる。そう、風呂場の排水溝に詰まった髪の毛とヘドロが作る、あの不気味な渦だ。
我々という存在は、組織という排水溝におけるフィルターのようなものだ。市場という外部からエネルギー(売上やタスク)が注ぎ込まれ、それが組織内を激しく回転し、最終的に「排熱」として処理される。その過程で、我々の神経系は摩耗していく。自動化された論理回路が1秒間に数億回の演算を行う横で、人間は「確認しました」という、たった7文字を打ち込むために、無駄に重厚な打鍵感だけが自慢の、数万円もする静電容量無接点方式のキーボードを狂ったように叩き続ける。カチャカチャという乾いた音だけが、深夜のオフィスに響く。それはまるで、自らがまだ「思考する主体」であることを証明しようとする、悲しいモールス信号のようだ。
なぜ我々は、これほどまでに高価な入力デバイスに固執するのか。それは恐らく、労働という行為そのものの無意味さを直視しないための、一種の儀式なのだろう。最高級の道具を使えば、そこから生み出される成果物(ゴミのような報告書)にも、何か意味が宿ると信じたいのだ。だが、どれほど洗練された万年筆で書いたところで、始末書の文面が美しくなるわけではないし、どれほど静粛性の高いキースイッチを叩いたところで、上司のパワハラめいたチャットが詩に変わるわけでもない。我々は組織という散逸構造を維持するために、自らの情緒を冷却水のごとく消費し続けているに過ぎない。
虚無の飽食
現象学的に見れば、このプロセスは「意味の希釈」という一言に尽きる。かつて、仕事には手触りがあった。木を削れば椅子ができ、土を耕せば野菜が育った。そこには主観的な「納得」と、物理的な「成果」の間に明確な因果関係が存在した。しかし今はどうだ。画面上のピクセルを右から左へ動かし、スプレッドシートのセルの色を変え、AIが吐き出した「それっぽい文章」を微調整して承認ボタンを押す。そこには苦悩も歓喜もない。ただ、ビットの流れがあるだけだ。
熱力学的には、仕事(Work)とは秩序ある運動を指すが、現代のホワイトカラーの労働は、限りなく熱(Heat)に近い。分子がバラバラな方向に激しく運動しているだけで、全体としてはどこにも進んでいない状態だ。満員電車で押し合いへし合いしている通勤風景を思い出してほしい。あれはまさに、高圧釜の中に閉じ込められた気体分子の運動そのものだ。互いに圧力をかけ合い、摩擦熱を出し、不快指数を極限まで高めて、疲れ果てて帰宅する。その膨大なエネルギーの浪費によって、社会という巨大なエンジンのピストンが、ほんの数ミリだけ動く。
我々は高度な知性体と共生しているのではない。巨大な熱機関のオーバーヒートを防ぐための、使い捨ての冷却パレットとしてシステムに組み込まれているのだ。ビール一杯の喉越しに、今日一日の屈辱と疲労を溶かして飲み干す。そうして空になった胃袋に、また明日の朝、コンビニのおにぎりという名の冷めた燃料を詰め込む。この非平衡な循環が途切れる時は、我々がシステムから「故障品(メンタル不調)」として排出される時だけだ。風呂の栓を抜いた時にできるあの渦のように、消えゆく運命を先延ばしにするためだけに、我々は今日も回転し続ける。
店員、もう一杯だ。今度は一番度数の高いやつを持ってこい。この頭の中の「演算ノイズ」を、一瞬で焼き切ってくれるようなやつを。
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