労働の統計的多様体:情報幾何学による公共的貢献の曲率測定と事業価値の再定義
前回、我々が「組織」という名の、実体のない幽霊がいかに個人の輪郭を侵食するかについて、コップの縁から溢れる安物のビールの泡を眺めながら論じたのを覚えているだろうか。あの時、君は「それでも社会貢献には価値がある」と、まるで賞味期限の切れたパンを神の肉と信じ込む狂信者のような顔をしていたね。残念ながら、今日はその淡い期待を、冷徹な生存の論理と、情報幾何学のメスで解体しなければならない。
労働という名の集団自殺
世の中の「働き方改革」だの「多様性の尊重」だのといった耳障りの良い言葉は、要するに牛丼屋で「つゆだく」と注文して得をした気分になっている、極めて低次の自己満足に過ぎない。我々が「仕事」と呼んでいる営みは、社会学的な意義などという情緒的なパッケージを剥ぎ取れば、単なる「生存資源の奪い合いにおける座標移動」に集約される。
君が満員電車で他人の脂ぎった体温を感じながら、死んだ魚のような目で無意味な数値を入力する時、そこで起きているのは高尚な情報の遷移などではない。それは、限られたパイを奪い合うカラスたちが、互いの羽をむしり合っている光景と何ら変わりはないのだ。君たちが信じている「公共的貢献」という大層な概念も、数理的に見れば、社会という名の巨大な胃袋を維持するために、君という一個体の時間を酸で溶かして吸収しているプロセスに他ならない。
それは、スマホのバッテリーが、使う予定もない位置情報通知によってジワジワと、しかし確実に死に向かっている現象と同じだ。君の情熱も、深夜までの残業も、社会という巨大な排泄システムを円滑に回すための、一滴の潤滑油として処理されている。それを「やりがい」と呼ぶのは、もはや精神疾患の一種と言っても過言ではないだろう。我々が「価値」と呼ぶものは、実は「他人の財布からいかにスマートに金を抜き取るか」という詐術の洗練度合いに過ぎない。誰でもできる仕事は、道端に落ちている石ころと同じで、フィッシャー情報量がゼロに近い。つまり、そこには新しい情報は何も存在せず、曲率は平坦だ。
なんだこれ。
逆に、一部の成功者が生み出す「イノベーション」とやらは、多様体の上に鋭い突起を作り、周囲の無知な大衆をその穴へと滑り落とす。現代のビジネス構造は、この「落とし穴」をいかに効率的に、かつ合法的に掘るかという一点に集約されているのだ。
幾何学的な搾取
さて、ここで少しばかり、居酒屋の湿ったおしぼりを丸めて、我々の立っている場所を考えてみよう。労働の価値を「公共性」という軸で測ろうとする試みは、ドブ川に香水を撒いてその清らかさを議論するようなものだ。社会が何を「善」とするかは、その時々の権力者が、自らの腹を満たすために設定した恣意的なルールに過ぎない。リーマン幾何学における計量の設定と同様、見る角度が変われば「最短距離」など容易に歪むのだ。
かつては「汗水垂らして働くこと」が正義だった。しかし今、高度に自動化された計算機群が台頭した世界では、その美徳は完全に崩壊している。シリコンでできた冷徹な知性は、人間が数十年かけて培う「勘」や「経験」という名の湿ったバイアスを、わずか数ミリ秒の演算で等価交換してしまう。君が誇りに思っているその職人芸は、計算機から見れば、ただのノイズ混じりの非効率なデータセットに過ぎないのだ。
人間が「心を込めて対応しました」などと宣う接客も、情報の密度という観点から見れば、吐き気がするほど希薄な儀式だ。我々の感傷、つまり「頑張ったという実感」は、脳という肉の塊が、過酷な環境下で自己崩壊を防ぐために分泌する、安価な麻薬の結果に過ぎない。二郎系ラーメンの、あの暴力的なまでの塩分と脂を摂取した後に感じる、心臓の鼓動と一体化した万能感と同じ種類の、低俗な錯覚だ。
馬鹿みたいに。
最近では、この絶望的な平坦さを回避するために、人間工学に基づいた高価な椅子を買い求める、滑稽な連中が増えている。ただのメッシュとプラスチックの塊に、なぜ中古の軽自動車が買えるほどの対価を払えるのか、私には理解に苦しむよ。腰の負担を減らしたところで、そこで生み出される思考が、重力に従って腐敗していく事実に変わりはないというのに。あるいは、耳にねじ込むだけで静寂を演出する小さな白い機械。周囲の雑音を消したところで、自分自身の内側から湧き出る「自分は特別ではない」という冷酷な真実までは消せない。
結局のところ、我々は「便利」や「快適」という名の鎮痛剤を打たれながら、自らの存在意義が希釈されていく過程を、ただ眺めているだけなのだ。
終焉のコンテスト
自動化された知性が、労働の多様体における「正解」を瞬時に導き出す時代において、人間の「公共的貢献」とは何を指すのだろうか。これまでの事業価値は「希少性」に基づいていた。しかし、あらゆる出力が無限に複製可能になり、誰でもそれなりの成果を出せるようになった今、希少性は完全に死滅した。残されたのは、計算資源と時間をいかに贅沢に、無意味に浪費できるかという「無駄の美学」だけだ。
これからの労働は、生産のためではなく、純粋な「ポーズ」のために行われる。「私はこれほどまでに無駄な、計算効率の悪い、しかし人間らしい情緒に満ちているように見える、何重もの無意味な承認プロセスを経て、この誰でも知っている結論に辿り着きました」という、壮大な言い訳のコンテスト。それが未来のビジネスの正体だ。
君たちが会議室という密室で費やす膨大な時間を考えてみたまえ。ホワイトボードに描かれる意味のない図形、プロジェクターの光に照らされた埃の舞い、そして上司の顔色を伺いながら発せられる、中身の一切ない同意の言葉たち。それらは生産的な議論のためではなく、単に「働いているフリ」をすることで、己の生存を正当化するための部族的な儀式に過ぎない。誰が誰にメールのCCを入れるか、ハンコの角度はどうあるべきか、そういった微細で無価値な「マナー」という名のルールを作り出し、それを守ることで互いに傷を舐め合う。そうやって、本質的な無能さから目を逸らしているのだ。
情報幾何学的に言えば、我々は特異点に向かって加速している。そこではすべての意味が、その重みに耐えきれず崩壊する。もはや「自己実現」だの「社会の歯車」だのといった使い古されたレトリックで、自分を騙し続けることは不可能なのだ。君が明日、オフィスで淹れるその一杯のコーヒーも、計算機から見れば単なる分子の熱運動に過ぎない。そこにどれほどの物語を投影しようとも、多様体の曲率はびくともしない。君が必死に書いた報告書は、明日の朝にはゴミ箱か、あるいはデータの海に沈み、誰の記憶にも残らない。
帰りたい。
さて、そろそろこの安酒も底を突いたようだ。公共性だの事業価値だのという幻想は、酔いが覚めるまでの短い夢として取っておきたまえ。現実の世界では、我々は皆、エントロピーの増大という逃れられない物理法則に従って、ただ静かに、腐敗し、散逸していく運命にあるのだから。
コメントを残す