組織の腐臭

前回の講義――いや、あの場末の立ち飲み屋で、泥水のようなホッピーを啜りながら吐き捨てた独白を覚えているか。我々は「効率化」という名の、終わりのない地獄のベルトコンベアについて語り合ったはずだ。走れば走るほど、組織という巨大な肉塊は内臓脂肪を蓄え、意思決定の代謝は落ち、最後には会議室の換気扇にへばりついた油汚れや、コピー機のトナーから漏れ出る発癌性がありそうな粉塵となって沈殿する。あの不毛な時間の続きを、今夜はこの安酒と共に解体してみようじゃないか。

効率の残滓と、膨張する自意識

テーマは「組織的多様体」。なんだか高尚な看板を掲げているが、要は「一円でも多く掠め取りたい強欲」と「世間から聖人君子だと思われたい虚栄心」が、どうやって一つの薄汚い箱の中で折り合いをつけるかという、極めて下世話で、血生臭い話だ。

世の経営者たちは、プレスリリースに「パーパス」だの「公共性」だのと、耳触りの良い呪文を並べ立てる。しかしその実態は、格安SIMで動かしている型落ちスマホのバッテリー劣化と似たようなものだ。新品の時は100%の理想(フル充電)を掲げていても、日々の泥臭い業務という充放電を繰り返すうちに、実効容量はみるみる減っていく。最終的には、膨張したリチウムイオン電池が液晶を内側から破壊し、常にコンセント(株主資本)という名の生命維持装置に繋がれていなければ、一瞬で放電し尽くして沈黙する、不自由なスクラップへと成り下がる。

組織が「事業性」という冷徹なパラメータに偏れば、それは具も出汁もない、伸び切った「かけ蕎麦」のようなものだ。摂取できるのは虚しい炭水化物のみ。生存はできるが、心は荒み、明日への活力など湧くはずもない。逆に「公共性」に全振りすれば、今度は「二郎系ラーメンの全部マシ」が出来上がる。過剰なトッピングの重みで土台の麺(利益構造)は見えず、床は脂でヌルつき、隣の客の不快な咀嚼音が響く中で、誰も完食できずに店は悪臭を放って潰れる。この両極端を彷徨う様を、社会学的に「ジレンマ」と呼んで悦に入るのは、現場の泥を啜ったことのない素人の仕事だ。我々、冷徹な観察者は、これを確率分布の変容、すなわち逃げ場のない統計的監獄として捉えなければならない。

馬鹿みたいに。

組織とは、複数の意思決定アルゴリズムが、互いの足を引っ張り合いながら重なり合う「統計的多様体」だ。そこには「利益最大化」という、滑り落ちれば即死が待つ急峻な勾配と、「社会正義」という、一歩進むたびに靴が泥に埋まる霧深い平原が共存している。この二つの異なる地形を一つの地図に収めようとすること自体、最初から数学的な無理筋――あるいは、安月給で家族を養いながら愛人を囲おうとするような、破綻前提の強欲を含んでいるのだ。

統計の冷徹:KLダイバージェンスと不倫の隠蔽コスト

ここで情報幾何学の出番だ。フィッシャー情報行列なんて言葉を出すと、君たちはすぐに明日の支払いのことでも考えて目を逸らすが、黙って聞け。これは単なる「物差し」の話だ。

組織が「公共性」と「事業性」の均衡を保とうとする行為は、二つの確率分布の距離――KLダイバージェンス(カルバック・ライブラー情報量)を最小化しようとする絶望的な試みに他ならない。だが、残念ながら人間という名の欠陥だらけの計算資源は、その誤差を埋めるための処理能力を、脳のシワの間に持ち合わせていない。

想像してみろ。不倫相手との密会を妻に隠蔽する際の、あの吐き気がするような計算コストを。日常の振る舞いという確率分布(公共性)と、裏側の欲望という確率分布(事業性)の乖離を埋めるために、君はどれだけの嘘(ノイズキャンセリング)を重ね、どれだけの脳内リソースを浪費しているか。「今日は残業だ」という嘘の整合性を保つために、君は過去の発言履歴を検索し、給与明細の数字を改竄し、架空の上司の愚痴まで捏造する。この情報の非対称性を維持するためのエネルギー消費こそが、組織における「調整コスト」の正体だ。

「やりがい」という言葉は、この埋められない乖離によって生じる「精神的な赤字」を補填するための、粉飾決算用のパッチに過ぎない。組織の目的と個人の生存本能が乖離したとき、脳内からドパミンを不当に分泌させ、計算上の「負の報酬」を無理やり「正」に書き換える。

まるで、書き心地が悪い癖に一本数十万円もする万年筆を、その「歴史」や「重み」という、反吐が出るような虚飾で正当化して購入する成金と同じだ。インクが出るという機能一点で見れば、100円のボールペンに完敗しているにもかかわらず、その不合理な価格設定を「所有欲」というバグで埋める。そうやって自分を騙さなければ、インクの滲みすら許せない自分の愚かさに耐えられないからだ。

結局のところ、公共性と事業性の均衡点とは、情報幾何学における曲率が無限大になる特異点のようなものだ。そこを目指せば目指すほど、組織の構造は歪み、構成員の精神は摩耗し、胃壁には穴が空く。現代のオフィスチェアが、人間を椅子に縛り付けておくために異常なまでの高機能化を遂げ、安月給の数ヶ月分という価格を吹っかけているのも、その組織の歪みがもたらす物理的な苦痛を、せめて金で解決しようとする哀れな足掻きに過ぎない。

腰が痛い。この椅子は、私の絶望を支えるにはあまりに軽すぎる。

組織の多様性が叫ばれる昨今だが、これもまた情報エントロピーの観点からは滑稽な茶番だ。ノイズを増やせばシステムの頑健性が増すと信じているようだが、それは単に計算コストを増大させ、決定の解像度を泥水のように濁らせているだけだ。異なるパラメータを持つ個体を一つの多様体に詰め込めば、情報の伝達速度は落ち、会議は「誰が一番先に折れるか」を競う我慢大会と化す。多様性という美名の下で、我々はただ、収拾のつかないデータの濁流に溺れながら、溺死するまでの時間を稼いでいるだけなのだ。

均衡の呪縛:熱力学的な死と、冷えた蕎麦

では、我々が目指すべき「統計的均衡」とはどこにあるのか。

残念ながら、それは熱力学的な「死」と同じ場所にある。全ての対立が解消され、公共性と事業性が完全な調和を見せたとき、そこには何のエネルギー勾配も存在しない。つまり、何も起こらない。変化を拒み、現状維持を唯一の目的とする、官僚機構の極北だ。それは、客の来ない店内で、主人が一人で啜る冷え切った蕎麦のようなものだ。麺は汁を吸い尽くし、箸で持ち上げればボロボロと崩れ落ちる。

組織が生きていると感じるのは、その不均衡、つまり「金を稼がねば死ぬが、人として軽蔑されたくもない」という浅ましい葛藤が、パチパチとショートした回線のように火花を散らしている間だけだ。その火花が消えたとき、残るのは冷え切った規約の残骸と、機能不全に陥った組織図、そして誰からも読まれない高級な革の手帳に書き込まれた、空疎な予定の羅列だけである。その手帳の革の匂いだけが、かつてそこに何らかの意思があったことを虚しく主張している。

かつての私は、この矛盾を解消する美しい数理モデルがあるはずだと信じていた。だが、この年になると分かる。モデルなど、単なる酒の肴だ。現実は、もっと汚らしく、もっと泥臭く、もっと救いがない。

公共性という名の「出汁」を取りすぎれば原価を圧迫して首が回らなくなり、事業性という名の「カエシ」を強くしすぎれば塩分過多で客は二度と戻らない。結局、我々がやっているのは、その日の湿気と客の機嫌に合わせて味を微調整する、駅前の立ち食い蕎麦屋の親父と、本質的には何も変わらないのだ。

それなのに、我々はなぜか、自分たちが「高度な知的作業」をしていると錯覚したがる。そのプライド、その1ミリの価値もない自尊心を維持するために、わざわざブランド物のスーツを纏い、不快な満員電車に揺られて、今日も「組織的多様体」の一部として摩耗していく。

なんだこれ。

帰りたい。

結局、統計的な均衡点など、数式の中には存在しない。それは、個々の社員の胃薬の消費量や、深夜のオフィスに響く溜息の周波数の中にのみ、残酷に刻まれているのだ。どの程度の嘘を自分につけるか。その「欺瞞の許容量」こそが、君たちの言うメトリクスの正体だ。

さて、グラスが空いた。

次の議題は何にする?「人間関係の非線形性」という名の足の引っ張り合いか、それとも「幸福の機会損失」という名の後悔についてか。どちらにせよ、今夜の我々に答えなど出せはしない。ただ、明日もまた、その不合理な多様体の一部として、行列の最後尾に並ぶだけだ。

お代わりを頼む。今度は、この胸焼けを洗い流せるほどの、もっとマシな酒を。

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