前回の講義――いや、あの薄汚れた駅前の居酒屋で、ハイボールの氷が溶ける音と共にこぼした「デジタルトランスフォーメーションという名の集団自殺」についての話は、まだ君たちの耳の奥で不快な耳鳴りのように響いているだろうか。効率化を叫べば叫ぶほど、組織という巨大な肉塊が自身の脂身で窒息していくあの滑稽な様だ。あれを思い出すだけで、私の胃酸過多が悪化する気がする。
さて、今日はもう少し「公共性」という、吐き気のするほど高尚で、それでいて中身のスカスカな概念について話をしよう。我々が「組織の意思決定」と呼んでいるあの泥沼のようなプロセスを、情報幾何学という冷徹なメスで解剖してみるわけだ。君たちが普段、会議室でやっているあの儀式が、いかに物理法則に逆らった無駄な熱量消費であるか、骨の髄まで理解させてやろう。
確率の檻と割り勘の不条理
世のサラリーマン諸君は、空調の効きすぎた会議室に集まっては「合意形成」なる儀式に勤しんでいる。あれは傍目には民主的な対話に見えるかもしれないが、数理的に見れば、単に統計多様体上の座標を、フィッシャー情報行列の勾配に従って微動させているに過ぎない。
公共圏などというものは、結局のところ、個々の構成員が持つ確率分布の集合体、すなわち統計多様体なのだ。個々人が抱える「昨日の晩飯の残り物のニンニクの臭い」や「住宅ローンの変動金利への恐怖」、あるいは「隣の席の同僚のタイピング音がうるさい」といった、バラバラで個人的な確率分布が重なり合った、不潔な吹き溜まりだ。我々が「正しい判断」と呼ぶものは、情報の幾何学的な最短経路――測地線――をなぞっているに過ぎない。
だが、悲しいかな、人間の脳という旧式の演算器は、その計算を「納得感」や「熱意」という、極めて不安定な電気信号のバグに翻訳してしまう。その実態は、飲み屋で誰が最後の一杯を注文したかを曖昧にし、端数の数十円を誰の財布から掠め取るかを、互いの顔色を伺いながら決定する「割り勘の不条理」の延長線上に過ぎない。あの、一円単位の攻防で生じる精神的な摩耗こそが、フィッシャー情報量の正体だ。
例えばだ、立ち食いそば屋で「かけ蕎麦」を注文する時のことを考えてみたまえ。そこには迷いがない。空腹という初期状態から、満腹という目標状態へ、情報の損失なく最短距離で遷移する。これこそが純粋な意思決定だ。線形であり、美しい。ところが、これが「二郎系ラーメン」のコールになると、途端に多様体の曲率が跳ね上がる。「ヤサイニンニクアブラカラメ」という非線形な入力が、個人の健康状態というパラメータを歪ませ、さらに「ロットを乱してはならない」という店舗特有の暗黙の社会圧が加わり、意思決定のコストを爆発的に増大させる。
組織の意思決定もこれと同じだ。トッピング(上司の顔色)を乗せすぎたせいで、本来の目的が見えなくなった、冷え切った脂の塊のような結論。それが君たちの成果物だ。
なんだこれ。
幾何学的労働と自己欺瞞
近年、シリコンでできた賢者たちが労働の現場に浸透し、我々の価値を再定義しようとしている。かつて「労働」とは、エントロピーの増大に抗うための物理的な仕事であった。汗をかき、筋肉を軋ませ、混沌に向かおうとする物質を秩序ある形に押し留めること。それが労働だった。
しかし、現在の労働はどうか。単なる「情報の整形」へと変質してはいないか。自動演算の残滓、あるいは予測回路とでも呼ぶべきシステムが、最適解を秒速で弾き出す世界において、人間が提供できる唯一の価値とは何か。それは、多様体上に「ノイズ」を投げ込むこと、あるいは、機械が計算し得ない「不合理な初期値」を設定することだけだ。皮肉なことに、我々が「知性」と呼んでいた論理的推論の部分は、もはや演算回路の方が遥かに低コストで、かつ高精度に遂行する。
結局のところ、人間が必死にキーボードを叩いて作成している議事録や報告書は、情報のクールバック・ライブラー情報量を最小化するための、無駄に高コストな熱量消費でしかない。機械が出した結論に対して「承知いたしました」と返信するためだけに、どれだけのカロリーと自尊心を燃やしているのか。
あの、一丁前に革を纏った高級な万年筆でサインをする瞬間の陶酔感を見てみろ。数万円もするペン先から溢れるのは、インクではなく「私は重要な決定をしている」という、神経科学的な自己欺瞞の分泌液だ。実用性だけで言えば、100円のボールペンの方がよほど摩擦係数が安定しているというのに、あの価格設定には呆れるばかりだ。その道具に縋ることでしか、自分の「決定権」という幻想を維持できないのだろう。
我々は、物理的な抵抗を「価値」と勘違いしている。スマホのバッテリーが劣化し、100%から20%へ急降下するあの無慈悲な挙動を、我々は「寿命」と呼んで受け入れる。しかし、自らの労働価値が機械によって希釈されることには、猛烈な拒絶反応を示す。それは、自分の存在という統計的分布が、より広い母集団の中に溶けて消えていくことへの、本能的な恐怖なのだろう。賞味期限切れのコンビニ弁当の底に溜まった、あの黄色い油のように、誰にも顧みられることなく廃棄される運命への恐怖だ。
馬鹿みたいに。
無への収束とビー玉の憂鬱
情報幾何学の視点に立てば、理想的な公共圏とは、全ての構成員の情報分布が完全に同期した、極めて平坦な空間である。そこには衝突もなく、摩擦もない。だが、それは同時に、情報の交換が死滅した「熱的死」の状態を意味する。
最適化の果てにあるのは、意思決定の消失だ。予測回路が全ての変数を計算し、君が今日着るシャツの色から、次に吐く嘘の内容まで指定する時、君の「自由意志」という名の不規則な揺らぎは、システムにとって排除すべきエラー、すなわち「ゴミ」へと昇格する。
公共圏を多様体として最適化しようとする試みは、結局、我々を「確率変数のサンプル」という、交換可能な家畜の地位にまで引きずり下ろす。君が今、悩み抜いて選んだそのランチのメニューも、実は巨大なECサイトのレコメンドエンジンや、SNSのアルゴリズムによって、多様体上の特定の座標へと誘導された結果かもしれない。自分の意志で選んだつもりになっているその選択肢は、最初から計算されたルートの上に置かれていただけだ。
我々は、情報の海を優雅に泳いでいるつもりで、実際には、あらかじめ引かれた等高線上を転がっているだけのビー玉だ。その事実を、神経科学的な報酬系という名の甘い麻薬で隠蔽しているに過ぎない。スタバの新作を飲むという程度の、安っぽいドーパミンで誤魔化しながら、転がり続けている。
帰りたい。
さて、この空虚な議論の続きは、また次回の講義で――。次は、君たちが必死に守ろうとしている「個性」という名の、ただの統計的なデータの偏りについて、跡形もなく解体してあげよう。
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