虚構の等価交換とビールの泡
「労働は尊い」などという言葉を聞くたびに、胃の腑から酸っぱいものが込み上げてくるのを禁じ得ない。それはおそらく、この居酒屋の酸化した揚げ油のせいだけではないだろう。我々が生きるこの社会という巨大なシステムは、その実、誰かの生存時間を不当な低価格で買い叩き、統計的な誤差の範囲内に押し込めることで辛うじて成立しているからだ。まずはこの、泡の比率ばかりが無駄に高い薄っぺらいビールに乾杯しよう。この一杯が適温で私の手元に届くまでに、物流トラックの運転手がどれほどの腰痛に耐え、居酒屋のアルバイトがどれほどの無意味な愛想笑いを強いられたか。その「負のエントロピー」の総和を計算することなく、喉を潤すことのなんと罪深いことか。
そもそも「公共的労働」などと美化されている領域について、君たちは根本的に誤解している。道路の舗装、深夜のコンビニ、救急医療、あるいは役所の窓口。世の有識者気取りはこれらを「社会インフラ」と呼び、感謝すべき対象だと説く。だが、情報幾何学という冷徹なメスでこの概念を解剖すれば、そこに見えるのは「価値の等価交換」などという甘い幻想ではない。あるのは、大衆の「享受して当然」という肥大化したエゴが作り出す、統計多様体上の暴力的なまでの曲率だ。
確率1の呪いと情報量ゼロの悲劇
公共的労働とは、例えるなら、頼んでもいないのに勝手に出てきて代金を請求される「お通し」のようなものだ。誰もその味に期待していないが、そこに無ければ場が成立しない。そして誰もが、その代金を払うことには極めて消極的だ。情報理論の父、クロード・シャノンは定義した。情報の価値とは「驚き」の度合いである、と。生起確率が100%、つまり「起きて当たり前」の事象には、情報量はゼロビットしか存在しない。
この数理的な呪いこそが、公共性を扱う上での致命的なバグだ。水道の蛇口をひねれば水が出る。電車は時刻表通りに来る。コンビニには24時間弁当が並んでいる。これらは確率的に「1」として社会に認知されている。したがって、そこに従事する人間がどれほど高度な調整を行っていようと、社会的な情報価値は「ゼロ」なのだ。ゼロに何を掛けてもゼロにしかならない。だからこそ、エッセンシャルワーカーの給与は、物理的な生存限界ギリギリの低空飛行に固定される運命にある。
この構造的欠陥に対して無自覚なエリートたちは、例えば[アーロンチェア]のような、座っているだけで知的生産性が上がると錯覚させる20万円もする椅子に深く腰掛け、「持続可能な社会」だの「ウェルビーイング」だのを高説する。だが、その高機能なメッシュ素材が支えているのは、彼らの高慢な体重だけではない。そのオフィスの床を毎朝磨き上げ、彼らが捨てたコーヒーの紙コップを回収する清掃員たちの、膝の痛みと湿布の臭いが、その椅子のキャスターの下には敷き詰められているのだ。彼らにとって清掃とは「背景」であり、背景画像に課金する人間はいない。公共的労働とは、多様体上の「曲率が高い領域」――すなわち社会の摩擦や不具合を、自らの肉体を研磨剤として使い、無理やり平坦にならそうとする、極めて物理的な損耗プロセスに他ならない。
エントロピーのゴミ箱としての肉体
社会という熱力学系において、秩序を維持するためには、増大し続けるエントロピーを絶えず外部へ排出しなければならない。では、その「外部」とはどこか? それは物理的な外部ではなく、社会階層という内部構造の「下部」だ。公共的労働に従事する人間は、システム全体の「熱浴」あるいは「ゴミ箱」として機能させられている。
想像してみるがいい。金曜の夜、理性が崩壊した酔っ払いどもが撒き散らした、二郎系ラーメンの未消化物が浮遊する駅のトイレを。その凄惨なエントロピーを「仕事ですから」という一言で処理させられる人間の精神状態を。これを私は「統計的エントロピーの罠」と呼んでいる。大衆が「自由」という名の下に無秩序に撒き散らす欲望の残滓を、特定の層に集約させ、熱エネルギー、すなわち「精神的摩耗」へと変換させるシステムだ。
情報幾何学におけるフィッシャー情報計量は、確率分布のパラメータ変化に対する「感度」を測る指標だが、現代社会は公共サービスに対してこの感度を意図的に麻痺させている。インフラが1秒停止しただけで「ふざけるな」と激昂する大衆は、その1秒を維持するために削られた労働者の寿命には、1円の価値も見出さない。この認識の乖離、すなわち現実のコストと支払われる対価の間のカルバック・ライブラー情報量の極大化こそが、我々が抱える幾何学的な絶望の正体だ。彼らの労働は、最適輸送理論における「コスト最小化」の対象でしかなく、輸送される「荷物」である人間の尊厳や痛みは、数式上では常に無視可能な微小量として扱われる。
幾何学的な搾取と高級文具の欺瞞
結局のところ、社会的合意の形成プロセスとは、この不条理な多様体の形状を、いかにして「正義」や「献身」という美辞麗句でコーティングして誤魔化すか、という詐術に過ぎない。最適輸送数理を用いれば、資源をAからBへ移動させるコストを最小化できるが、その美しい偏微分方程式には「運ばれる側の苦痛」というパラメータ項は存在しない。効率化という名のコスト関数を最小化すればするほど、労働の質は希釈され、その価値は「公共」という名の巨大な虚無に吸い込まれていく。
人々は口では「多様性」や「分配」を謳うが、その実、統計的な平均値から外れることを極端に恐れる。誰もが標準正規分布の山頂という安全地帯に居座りたがり、裾野に広がる泥臭いインフラ整備という現実には触れようともしない。例えば、成功者の証として[モンブランの万年筆]を胸ポケットに挿している連中がいるだろう。あの黒光りする樹脂の塊で、彼らは何を書く? 公共料金の自動引き落とし依頼書か? それとも、下請け業者への値下げ要求のサインか? 道具が高級になればなるほど、そこで扱われる情報の「低俗さ」が際立つ。このコントラストに吐き気を覚えないのであれば、貴様もまた、多様体の歪みに寄生するダニの一種に過ぎない。
我々が公共的労働に対して正当な分配を行わないのは、それが「計算不可能」だからではない。正しく計算してしまえば、我々の快適な生活が、実は統計的な搾取の上に成り立つ「幾何学的な崩壊寸前のバランス」であることを認めざるを得なくなるからだ。だからこそ、社会はそれを「やりがい」だの「ボランティア精神」だのという、数理的には定義不能な、甘ったるいオブラートで包んで隠蔽する。
終幕
ああ、もういい。喋りすぎて喉が渇いたが、この店員を呼ぶボタンを押す気力すら失せた。私がボタンを押せば、また誰かが最短経路(ジオデシック)を通ってここへ走り、私の不機嫌という負のデータを処理しなければならないのだから。公共性という名のクラインの壺の中で、我々は出口のない徒労を繰り返しているに過ぎない。
さっさと会計を済ませよう。もちろん、端数は切り上げないし、チップなど払うつもりは毛頭ないがね。
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