統計的徒労

「社会貢献」だの「公共の福祉」だの、居酒屋のお通しで出てくる、いつから冷蔵庫の奥で眠っていたのかも定かではない、端の乾ききったポテトサラダくらいには食うに堪えない代物だ。

なぜ人間という名の家畜は、自分たちが組織という名の、油の切れた巨大な粉砕機の一部に組み込まれているという不都合な真実を、これほどまでに道徳という名のカビの生えたオブラートで包みたがるのだろうか。学会の帰りに寄った、床が油でヌルヌルと滑る場末の居酒屋。グラスの洗浄が不十分で、微かに生臭さが残る安物のハイボールを啜りながら眺めるサラリーマンたちの丸まった背中は、まさに統計的多様体の上で、出口のない迷路を這い回る実験動物そのものだ。

彼らは「チーム一丸となって」と、誰一人として本心では思っていない乾杯を繰り返すが、数理的に言えば、それは個々の確率分布のパラメータを、無理やり一つの点に収束させようとしているに過ぎない。あるいは、飲み会の最後に発生する、端数を誰に押し付けるかを探り合うあの浅ましくも計算高い視線の交差こそが、情報幾何学におけるフィッシャー情報計量の、最も俗悪な実体化と言えるだろう。

座標

組織とは、志を同じくした人間の集まりなどではない。それは、欲望と妥協、そして諦念の分布が定義された、逃げ場のない檻だ。営業部の田中が抱く「あわよくば同期を蹴落として出世したい」という下劣な野心も、経理の佐藤が給湯室で垂れ流す「部長の咀嚼音が不快だ」という陰湿な呪詛も、すべては多次元空間における確率変数のゆらぎ、あるいはシステム配管にこびりついたヘドロのような汚れでしかない。

我々が「組織文化」などと呼んでありがたがる耳触りの良い言葉は、その多様体上の「曲率」、つまり空間の歪みそのものだ。平坦で清潔なユークリッド空間であれば、情報は最短距離(測地線)を直進し、無駄なく処理されるはずだ。しかし、現実の組織は、判子を一つもらうためだけに三つのフロアを回るような前時代的な承認フローや、専務の機嫌を損ねないための無意味で複雑怪奇な忖度によって、時空が歪みきっている。情報が直進できず、角を曲がるたびに運動エネルギーが摩擦熱として散逸し、ただ虚無だけが積み重なっていく。

これは、接触不良を起こして端子が黒ずんだ、100均のiPhone充電ケーブルのようなものだ。繋がっているポーズだけは見せているが、肝心の電力(情報)はスマホに届かず、接続部だけが指を火傷しそうなほど異様に熱を持っている。あの無意味な熱こそが、日本のホワイトカラーが深夜残業で誇る「頑張り」の正体であり、熱力学的にはただの資源のゴミ捨て場である。エネルギー効率が悪すぎて、もはや存在自体が環境破壊と言ってもいい。

彼らは、その歪んだ空間に自分の身体を無理やり適合させるために、[重力への惨めな敗北を認めて20万円以上もの大金を差し出すという救いようのない信仰](https://www.hermanmiller.com/ja_jp/products/seating/office-chairs/aeron-chairs/)に縋り、脊椎をS字に保つための高機能な椅子を買い求める。精神のヘルニアが手遅れなレベルまで進行しているというのに、座面がメッシュ素材であることに安らぎを見出し、ランバーサポートの弾力に人生の支えを求めるその姿は、沈みゆくタイタニック号の甲板で、少しでも座り心地の良いデッキチェアを探して走り回る喜劇そのものだ。船底に穴が開いていることに気づかないふりをして、椅子のリクライニング角度を調整している場合か。

摩擦

ここで「多様性」という、最近流行りの甘ったるい、それこそ安物のガムシロップをぶちまけたような言葉を解体してみよう。情報幾何学の視点から見れば、多様性とは単純にパラメータ空間の次元を増やすという、システムに対する嫌がらせ以外の何物でもない。次元が増えれば、それだけ計算コストは指数関数的に増大し、決定は遅れ、リソースは枯渇する。

例えば、昼飯に何を食べるか決める際、全員が思考停止して「一番安いかけ蕎麦」と答える死んだような組織は、曲率ゼロの平坦な空間だ。意思決定は光速で行われ、一分の無駄もない。しかし、ここに「私は二郎系でニンニクをマシマシにしたい」「健康診断の結果が悪いからヴィーガン対応で」「そもそも小麦粉はグルテンフリーでないと受け付けない」などという多様性が持ち込まれると、空間はグニャグニャに歪み、意思決定のベクトルは迷走を始める。

それぞれの空腹(分布)の間の距離を測定し、妥協点という名の、誰も満足しない「重心」を求める作業は、もはや地獄のような演算コストを必要とする。結果として選ばれるのは、誰も行きたくなかったファミレスの、味のしないサラダバーだ。多様性とは、本質的に「摩擦」であり、組織というエンジンのシリンダー内に混入した「砂」なのだ。

それを「豊かさ」と呼ぶのは、事故渋滞で一歩も動かない高速道路を眺めて「車種が豊富で、まるで車の博物館だ」と喜ぶような、重度の認知歪曲である。神経科学的に見れば、異なる意見を調整する際に生じるストレスは、単に脳内の貴重なブドウ糖を食いつぶす「悪質なバグ」に過ぎない。他者への理解? そんなものは脳の処理落ちのエラーメッセージだ。

それでも公共的労働、つまり誰のためでもないが、全員のために仕方なくやる仕事においては、この歪みが不可避となる。公園のベンチをどこに置くか。保育園の子供の声は騒音か否か。これらの問題は、異なる期待値を持つ分布たちが、多様体の上で互いに領土を主張し、罵声を浴びせ合う戦争である。そこには調和など存在しない。あるのは、どちらがより大きな声で泣き叫び、クレームを入れるかという、低レベルなパラメータの競合だけだ。

散逸

そこで登場するのが「最適輸送理論」という、管理側にとってだけ都合の良い計算式だ。ある分布(不満を溜め込み、今にも爆発しそうな愚民の現状)を、別の分布(文句を言わずに黙って納税する理想的な公共の状態)へと、いかに最小のコストで運ぶか。これが公共政策の本質であり、政治家の仕事のすべてだ。

数学者のセドリック・ヴィラニが得意げに語るように、ワッサースタイン距離を最小化するように、工事現場の土砂を運ぶトラックのルートを決めるのと同じ感覚で、人間の労働と人生を再配置する。A地点の土砂をB地点へ。不要な人間を地方へ。余った労働力をブラック企業へ。

しかし、人間は土砂ではない。彼らには「自意識」という、物理法則を無視して勝手に余計な熱を出し、計算を狂わせる最悪に効率の悪い触媒が備わっている。公共的な労働に従事する人間がしばしば燃え尽き、魂の抜け殻のようになるのは、この最適輸送のプロセスにおいて、個人の分布が組織の冷徹な構造によってズタズタに引き裂かれ、無理やり平滑化されるからだ。

効率的な輸送を実現しようとすれば、個々の人間という「粒子」の特性は無視され、単なる確率の塊、あるいは統計上のノイズとして処理される。逆に個性を尊重し、一粒一粒の土砂の言い分を聞いていれば、輸送コストは無限大に発散し、公共サービスは瞬時に破綻する。

もう、いい。帰りたい。

結局、我々が「働きがい」と呼んでいるものは、この最適輸送の過程で生じる摩擦熱で、凍えた指先を温めているようなものだ。システム全体としてはエントロピーが増大し、確実な熱的死に向かっているにもかかわらず、その微かな熱を「生きている実感」だと、必死に自分を洗脳しているに過ぎない。それは、遭難者が幻覚を見ながら凍死していく過程に似ている。

スマホのバッテリーが劣化するように、我々の精神もまた、組織という名の統計的多様体の上で、充放電を繰り返すたびに最大容量を減らしていく。100%充電したつもりでも、昼過ぎには20%まで減り、省電力モードという名の無気力に陥る。その原因が、バックグラウンドで強制終了できずに動き続けている「公共性」という名の、あまりに重すぎる、そしてユーザーにとっては全く役に立たないOSにあることにも気づかずに。

さて、このぬるくなった、氷が溶けて薄まりきった不味いハイボールを飲み干したら、私もまた多様体の一部、あるいは単なるパラメータの一つへと戻らなければならない。次の講義では、未来への希望に目を輝かせる無知な学生たちに、「夢」だの「自己実現」だのといった、論理のかけらもない妄想を、あたかも価値があるかのように語って聞かせるのだ。

それが、この歪みきった空間において、私がこれ以上脊椎を痛めずに生き延びるための、最も浅ましく、かつ最小コストの生存戦略なのだから。

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