家畜の幾何学

吐き気を催す「絆」の正体

前回は「組織における個人の埋没」について、まるで錆びた歯車が油を欲するように語り合ってしまった。不覚だ。酒の席での感傷ほど、翌朝の胃もたれを加速させるものはない。今日はもう少し、冷めた話をしよう。諸君が「社会貢献」だの「公共性」だのと、酔っ払った勢いで口にするあの概念の正体についてだ。

そもそも、公共性とは何だ? 誰かのために、あるいは組織のために自分を削る行為だと思っているのなら、それは大きな勘違いだ。情報幾何学的な視点から見れば、公共性とは個々のエージェントが持つ確率分布が、一つの「統計多様体」の上でいかに滑らかに接続されているか、という構造の問題に過ぎない。

組織の「理念」という言葉を聞くたび、私は安物の立ち食いそばを啜りながら、隣で大声で夢を語る若者の唾が丼に入るのを眺めているような気分になる。諸君が「一体感」と呼ぶそれは、脳内の報酬系がバグを起こし、個人の欲望を平均値という名の「薄めたスープ」に同化させただけの錯覚だ。この近似のプロセスにおいて、必ず「KLダイバージェンス(情報量差)」が生じるのだが、人間はこの数学的な誤差を「やりがい」などという情緒的な言葉で翻訳して自分を騙す。馬鹿みたいに。

想像してみたまえ。梅雨時の満員電車を。窓ガラスは結露し、車内は生乾きの衣類と他人の胃の内容物が混ざり合ったような異臭で満たされている。隣の男の湿った背広が自分の腕にべっとりと張り付き、背後からは誰かの鞄の金具が肋骨に食い込む。情報の等時性? 確率分布の共有? 笑わせるな。そこにあるのは、互いに互いを「邪魔な肉塊」として認識し合う、純粋な敵意と生理的な嫌悪だけだ。

だが、諸君はその地獄のような圧力容器の中で、必死にスマホの画面をスクロールさせ、何か別の世界を幻視しようとする。その指先が求めているのは、社会的な成功の象徴か、あるいは、この不快な肉体の接触から自分を解放してくれる高機能な椅子の上での孤独な時間か。皮肉なものだ。組織という共同体に埋没すればするほど、個人の魂は、誰にも触れられたくないという排他的な欲望を肥大化させていく。我々が支払っている「公共への貢献」というコストは、結局のところ、他人の体温を感じなくて済む特権的な空間を買うための頭金に過ぎないのだから。

喉が渇いた。

歪んだ天秤と安物のペン

ガバナンスにおける意思決定とは、本来、この歪んだ多様体の上でいかに「最短経路(測地線)」を見出すかのゲームであるはずだ。だが、昨今のAIガバナンスを巡る議論はどうだ。倫理や透明性という、定義すら曖昧な「重り」を計量テンソルに無理やりねじ込んでいる。幾何学的に言えば、これは空間そのものをボコボコに踏みつけ、恣意的な窪みを作る行為に近い。

これは、スーパーマーケットで半額シールが貼られる瞬間に群がる主婦たちの力学と何ら変わりない。そこには「公平性」など存在しない。あるのは、店員がシールを貼る手の動きを予測し、他者を押し除けてでも利益を確保しようとする、浅ましい最適化行動だけだ。組織のリーダーたちが掲げる「倫理」という名の正義も、結局は自分がその半額の惣菜を確実に手に入れるために、他者の動線をブロックする「計りの指押し」に過ぎない。

会議室を見渡せばいい。彼らは「多様性が重要だ」と宣いながら、自分と異なる意見を持つ者を、情報のノイズとして処理する。それはまるで、上司に奢られる飲み会でだけ、普段は頼まないような高い日本酒や刺身を平然と注文する、あの卑屈な精神構造と同じだ。自分の財布は痛まないからこそ、彼らは「正しさ」という高価なメニューを際限なく要求する。そのコストを払うのが、現場の末端であることにも気づかずに。

そして、彼らは決定事項に署名する。胸ポケットから取り出した黒い光沢を放つ筆記具で、滑らかに、しかし何の意味も持たない線を引く。そのペン先が走るたびに、組織の多様体はさらに歪み、現場の人間は理不尽な急勾配を登らされることになる。彼らが署名しているのは「最適解」ではない。単に自分の保身と、退職金という名の逃げ切り資金を確保するための「計算誤差の隠蔽工作」だ。情報の非対称性を利用して、自分たちだけが多様体の平坦な場所に居座り、部下たちには曲率の激しい崖っぷちで踊ることを強要している。

なんだこれ。

熱力学的に見れば、これはエントロピーの局所的な減少(秩序)を維持するために、周囲に膨大な熱(不満と過重労働)を排出し続けている状態だ。組織というシステムが「公共的」であろうとすればするほど、その外部、あるいは下層には、計り知れない「情報のゴミ」が堆積していく。

家畜たちの静寂

意思決定多様体とは、我々が「合意」という名の錯覚を維持するための、ただの計算モデルに過ぎない。AIがその計算を肩代わりするようになった時、最後に残るのは「人間というノイズ」を排除した、冷徹で平坦な幾何学空間だ。

想像せよ。深夜2時のコンビニエンスストア。白い蛍光灯が、色彩を失った床を無機質に照らし出している。陳列棚には、工場で厳密に計算されたカロリーと栄養素を持つ弁当が、整然と並んでいる。そこには、料理人の情熱も、食べる者の喜びもない。あるのはただ、廃棄されるまでの時間をカウントダウンする「商品」としてのデータだけだ。

AIによって最適化された社会とは、この深夜のコンビニのようなものだ。我々はそこで、消費期限切れ間近の弁当を待つ浮浪者のように、システムから分配される「幸福」の残飯を口を開けて待っている。そこにはもはや「公共性」という言葉すら存在しない。ただ、最適化されたパラメータが、エントロピーを最小化するように淡々と配置されるだけだ。

これを「理想郷」と呼ぶか「墓場」と呼ぶかは、諸君の主観的確率分布に委ねられているが、実態はもっと残酷だ。それは、家畜が最も効率よく肉をつけるために配合された飼料を、ベルトコンベア式に流し込まれる肥育場と同じだ。思考する必要はない。選択する必要もない。ただ、与えられた情報を咀嚼し、排泄し、経済という名の屠殺場へと送られるその日まで、大人しく呼吸していればいい。

帰りたい。

現実の多様体には境界などないし、物語のようなカタルシスも存在しない。あるのはただ、終わりのない情報の連鎖と、冷え切ったジョッキの底に溜まった、わずかな泡の残骸だけだ。明日もまた、諸君は「公共性」という名の、穴の空いたビニール傘を差して、土砂降りの社会へと出かけていくのだろう。せめて、その傘が情報の重みに耐えきれず、完全に裏返ってしまわないことを祈っているよ。まあ、どうせ無理だろうがね。

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