労働という名の残飯処理
前回の「生産性の向上」という甘美な言葉の響き。あれは要するに、上げ底されたコンビニ弁当の、あの虚しいプラスチックの段差と同じだ。パッケージ越しにはボリュームがあるように見せかけ、蓋を開けて箸を突き立てた瞬間に判明する、底の浅さと空洞。我々が手に入れたのは、栄養失調を加速させるスカスカの炭水化物と、食後の空虚感だけだった。さて、今宵はもう少し、胃の腑が焼けるような現実の話をしよう。
世の経営層やコンサルタントどもは、口を開けば「組織の最適化」だの「タスクの適材適所」だのと、さも高尚なパズルを解いているかのように宣う。だが、私に言わせれば、彼らがやっているのは、飲み干した後の二郎系ラーメンのスープの底に沈んだ、ドロドロの背脂の塊を一つずつ箸で数えるような、呪われた徒労に過ぎない。脂とニンニクの区別もつかない混沌の中で、何が最適で何が効率かなど、判別できるはずもないのだ。
労働とは、本質的にエントロピーという名の「腐敗」に抗う必死の抵抗だ。物理法則は、放っておけば部屋が散らかるように、全ての秩序を崩壊させようとする。その奔流に逆らって書類を整理し、バグを修正し、人間関係を取り繕う。しかし、皮肉なことに、組織が整然とすればするほど、そこには熱力学的な死、つまり「完全に冷めきって固まった豚脂」のような、白く濁った静寂が忍び寄る。
意味を失った細胞の喘ぎ
我々が「会社」という巨大な熱機関に身を投じる時、そこには必ず「やりがい」という名の、脳が分泌する安っぽい麻薬が付着している。だが、神経科学的に見れば、そんなものは単なるドーパミンの過剰放出、あるいは前頭葉が現実の過酷さを隠蔽するために捏造した、システムのバグに過ぎない。自己欺瞞という鎮痛剤なしには、この不条理なシステムに身を置くことなど不可能だからだ。
朝、死んだ魚のような目を連ねて満員電車に揺られる時間を思い出してほしい。雨の日の湿気、生乾きのスーツの臭い、他人の呼気に含まれる昨晩のアルコールとコーヒーの混ざった不快な蒸気。あの瞬間に感じる、家畜として運搬されているような惨めな連帯感。あれを「社会貢献への通勤」などという美辞麗句でコーティングするのはもうやめろ。オフィスに着いて最初にする仕事が、未読のまま積み上がった、中身のない承認依頼メールの処理だ。CCに入れられただけの、自分には関係のないプロジェクトの進捗報告。これに「確認しました」と返信する行為は、物理学で言うところのブラウン運動……いや、もっと低俗に言えば、水槽の中でただ口をパクパクさせている金魚の運動と同じだ。一見激しく動いているように見えて、系全体としては、濁った水の中で糞を撒き散らしているだけに過ぎない。
この「動いているという錯覚」を維持するために、我々は寿命という名のポテンシャルエネルギーを削り取っている。スマホのバッテリー劣化を見てみろ。購入当初はあんなに誇らしげに持続していたエネルギーも、充電と放電を繰り返すうちに、内部の化学構造が不可逆的に崩壊していく。組織も同じだ。タスクを配置し、人を動かすたびに、見えない摩擦熱が発生し、組織の構成員という「細胞」は摩耗し、黒ずんでいく。会議室でプロジェクターの排気音を聞きながら、誰かの貧乏ゆすりだけが響くあの時間。あれは、人間の魂が摩耗する音だ。
結局、我々が「仕事」と呼んでいるものの8割は、システムから漏れ出す廃熱、つまり上司の機嫌取りや無意味な報告書の修正といった、場当たり的なゴミ処理作業なのだ。
馬鹿みたいに、毎日毎日。
汚水の循環と高貴な虚飾
ここで、イリヤ・プリゴジンの「散逸構造」という概念を、少しばかりアルコールで緩んだ頭に流し込んでみよう。生命や組織といった動的なシステムは、外部からエネルギーを取り込み、エントロピーを外に排出することで、その秩序を維持している。つまり、組織が「生きている」状態とは、絶えず「ゴミ(無駄な業務や怒号、精神的苦痛)」を外部に垂れ流し続けている状態を指す。排水溝が詰まれば、水が溢れて腐るのと同じ理屈だ。
いわゆる「ホワイト企業」と呼ばれる場所が、なぜあんなにも退屈で、どこか死臭が漂っているのか。それは、散逸が極限まで抑え込まれ、系が平衡状態に近づきすぎているからだ。完全に最適化された組織とは、電子レンジで温めすぎて水分が飛び散り、石のように硬くなったコンビニのおにぎりに他ならない。そこには変化もなければ、生命の瑞々しさもない。
一方で、ブラック企業と呼ばれるカオスな現場は、非平衡開放系としてのバイタリティに溢れている。そこでは、摩擦熱が発火し、常に新しい「炎上」というエネルギーが供給される。しかし、その代償として、構成員である人間の精神は、真夏のゴミ捨て場に放置された生ゴミのように、急速に発酵し、腐敗していく。どちらに転んでも、我々は熱力学の奴隷だ。
先日、取引先への面目を保つためだけに購入を強要されたモンブランの万年筆の価格を見て、私は三日三晩、食欲を失った。たかだかインクを紙に塗りつけるだけの樹脂と金属の棒切れに、生活費を何ヶ月分もつぎ込む。この異常な価格設定こそが、ブランドという名の「散逸構造」を維持するための、残酷な情報操作だ。「良い道具を使えば良い仕事ができる」という幻想を維持するために、我々は法外なコストを支払わされる。その高価なペン先で書く言葉が、「承知いたしました」という奴隷の返事だけだというのに。インクカートリッジを交換するたびに、自分の血を抜かれているような気分になる。
反吐が出る。
予測と残高の地獄
さて、本題だ。なぜ我々のタスク配置は、いつまで経っても最適化されないのか。その答えは、カール・フリストンが提唱した「自由エネルギー原理(FEP)」にある。
脳は、外部世界からの感覚入力を予測し、その予測誤差(サプライズ)を最小化しようとする推論機械だ。これを組織に当てはめると、上司は部下が「期待通り」に動くことを求め、部下は「給料分だけ」働いて波風を立てないことを目指す。この予測誤差をゼロにしようとする運動こそが、自由エネルギーの最小化だ。給料日前のコンビニのレジで、残高不足のエラーが出ないか冷や冷やしながら計算するあの瞬間の脳の働きと同じだ。我々は常に、不快な「驚き」を排除しようと躍起になっている。
しかし、ここに致命的な陥穽がある。誤差を最小化する最も手っ取り早い方法は、外部世界を遮断するか、あるいは自己を環境に完全に同化させることだ。つまり、誰も挑戦せず、誰も異を唱えず、全員が「死んだ魚の目」をして座っている状態が、自由エネルギー論的には最も「安定」していることになる。新しい提案をして上司の予測を裏切るよりも、黙って判子を押す方が、脳のエネルギー消費は少ない。
タスク配置とは、単なるスキルのマッチングではない。それは、各個人の内部モデルが抱える「予測の不確実性」を、組織全体の計算コストとしてどこまで許容するかという、残酷な情報幾何学的なトレードオフだ。優秀な人間をわざと使いにくい場所に配置するのは、情報のサンプリングにおけるノイズを増やし、システムの硬直化を防ぐための、無意識の防衛本能かもしれない。最適化されすぎたシステムは、環境の変化に対して脆いからだ。
あるいは、単に上が救いようのない無能なだけか。恐らく後者だろう。
帰りたい。今すぐ。
結局のところ、我々は自由エネルギーという名の檻の中で、エントロピーという名の死神から逃げ回っているに過ぎない。完璧な配置など存在しない。あるのは、今日一日を、どの程度の「マシな絶望」で塗りつぶすかという選択だけだ。満員電車で押しつぶされるか、会議室で退屈に殺されるか、その程度の差でしかない。
冷え切って脂が浮いたかけ蕎麦を啜りながら、私は思う。この組織という名の熱機関が、いつか完全に焼き付いて沈黙するその日まで、我々は無意味なブラウン運動を「情熱」と呼び続け、高すぎる筆記具で無価値な契約書に名前を書き込み続けるのだろう。蕎麦の汁さえ、今日はやけに塩辛く感じる。
さて、そろそろ店を変えようか。次の店も、きっとエントロピーと、どうしようもない人間の体臭に満ち溢れているに違いない。
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