昨日、隣の席で、まだ入社して三年も経っていない肌艶の良い若手社員が「このプロジェクト、ようやく安定してきましたね」と、まるで人生の真理に到達したかのような顔つきで、結露したコップに入ったぬるい麦茶を啜っていた。私はその時、彼に「それは死の匂いだぞ」と言いかけて、慌てて駅前の立ち食いスタンドで四百円を払って手に入れた、もはや麺としてのコシを完全に喪失したかけ蕎麦の汁を飲み込んだ。口の中に広がる安っぽい出汁の風味と、飲み込みきれなかった言葉の苦味が混ざり合う。
世の中には「安定」という言葉を、まるで神から与えられた祝福のように崇める向きがある。就職活動生は「安定した基盤」を求め、経営者は「経営の安定」を謳い、株主は「安定配当」を欲する。だが、組織論的に見れば、あるいは物理学という冷徹極まりないレンズを通せば、安定とはシステムの熱死、すなわち平衡状態への回帰に他ならない。ビジネスの文脈で語られる「円滑な運営」や「マニュアル化された日常」は、熱力学第二法則という宇宙の無慈悲な独裁者が、その組織をエントロピーの極大点、つまり「何の変化も起きないゴミの山」へと引きずり込んでいる葬列の行進曲なのだ。
馬鹿みたいに。
我々が「ホワイト企業」と呼んで羨むあの静かなオフィスを想像してみてほしい。定時退社時刻を過ぎ、空調が切れたフロアに、誰もいないデスクが墓標のように並んでいる。そこには怒声もなく、トラブルもなく、ただ安物のFAXが受信エラーの音を延々と、規則的に響かせているだけだ。あるいは、給湯室の冷蔵庫が低い唸り声を上げている音。あれは平和の音ではない。情報幾何学における情報の消失点であり、エネルギーの出入りが止まった閉鎖系に近い。そこでは、誰も新しいことを言わず、誰も椅子から立ち上がらない。ただ、時間が等速で過ぎ去り、組織としてのポテンシャルエネルギーが底をついていく。これは、スマホのバッテリーが1%になった時、画面の輝度が最低に固定され、もはや通知を受け取る力すら失っているあの悲しい状態と同じだ。死んでいるも同然なのに、充電ケーブルが繋がれていないことに気づかないまま、緩やかに機能停止を待っている。
脂と混沌
そもそも、組織というものがなぜこれほどまでに脆く、そして時に爆発的な活力を生むのか。それを説明するには、イリヤ・プリゴジンの「散逸構造理論」を持ち出すのが手っ取り早い。
本来、熱力学の教えに従えば、世界は無秩序(エントロピー増大)に向かうはずだ。コーヒーにミルクを垂らせば、いずれ完全に混ざり合って均一な茶色い液体になるように、差異は消失し、すべては均質化する。しかし、外部から絶えずエネルギーを注入し、内部で発生したゴミ(エントロピー)を外部に排出し続ける「非平衡開放系」においては、突如として自発的な秩序が立ち現れる。これが散逸構造だ。
イノベーションとは、清潔で温度管理されたコワーキングスペースで、付箋をペタペタと貼るようなワークショップから生まれるものではない。それは、既存の秩序を破壊するほどの巨大な「ゆらぎ」が、システムの閾値を超えた時に発生する物理現象だ。深夜の二郎系ラーメンを思い出してほしい。あの黄色い看板の下に形成される行列。店内に入れば、床は脂で滑り、空気中には豚骨の粒子が飽和状態で漂っている。丼の中に鎮座するのは、山盛りのモヤシという名の障壁、その下に潜む暴力的なまでの背脂の層、そして翌朝の腹痛を確約する過剰な塩分と化学調味料の塊だ。あれはもはや食事というよりは、胃袋という閉鎖系に対するエネルギーの過剰供給であり、内臓への宣戦布告に他ならない。
なんだこれ。
しかし、あの混沌とした丼の中にこそ、ある種の熱狂的な信者(秩序)が形成される。過剰なエネルギーの流れ込み(摂取)と、その後の激烈な排出プロセス(下痢)というサイクルこそが、生命活動の戯画化された本質なのだ。まともな組織を創りたいなら、まずは攪拌することだ。適度なストレス、予測不能な市場の介入、そして何より、予定調和を嫌う変質者の存在。これらが外部からの負のエントロピーとして機能し、組織を平衡状態から遠ざける。定常状態に安住し、誰にでもできる作業を繰り返しているだけの人間は、ただ呼吸をして酸素を消費し、二酸化炭素を排出するだけの、極めて燃費の悪い暖房器具に過ぎない。
最小化される魂
ところが、ここからが物理の皮肉なところだ。組織がいったん一定の「定常状態」に落ち着くと、今度は「エントロピー生成最小化原理」が働き始める。これは、非平衡状態であっても、システムが安定して存続しようとする際、できるだけ無駄なエネルギーを使わず、エントロピーの発生を抑えようとする性質だ。
窓際族と呼ばれる人々が、一日中Excelの画面を開き、セルの背景色を微妙に変えたり、罫線の太さを0.5ポイント修正したりする作業に没頭している姿を見たことがあるだろうか。あるいは、定例会議で「異議なし」と唱えるためだけに、一時間前から資料を読み込むふりをする中間管理職たち。彼らの行動は、倫理的には怠慢かもしれないが、物理学的には極めて正しい。
会議で余計な発言をすれば、議論という名の摩擦熱が発生し、エントロピーが増大する。上司の顔色を伺わずに行動すれば、組織内のポテンシャル障壁に衝突し、無駄なエネルギーを消費する。だから彼らは黙る。前例を踏襲する。これは、個人の脳内における熱力学的なコストを最小化し、システム全体の崩壊を微細な単位で先延ばしにするための、涙ぐましい生存戦略なのだ。変化を拒み、現状を維持しようとするその力は、物理法則によって保証された宇宙の意思ですらある。
この「最小化」への欲望は、我々の身の回りにある道具にも醜く表れている。我々は自らの肉体が持つ構造的欠陥、すなわち二足歩行という無理な進化の結果生じた腰痛というバグを補正するために、狂ったような金額を支払う。例えば、人間工学に基づいて設計されたというアーロンチェア。たかが座るという単純な動作において、脊椎のエントロピー増大を防ぐためだけに、軽自動車の中古が買えるような二十数万円という異常な価格がついているのを見ると、私は深い溜息が出る。それは、「座る」という行為に伴う苦痛を最小化したいという、人類の滑稽なまでの執念の結晶だ。
帰りたい。
私たちは、効率を求めるあまり、自らを一つの「定常な回路」へと追い込んでいる。システムが最適化されればされるほど、そこから「ゆらぎ」は排除され、イノベーションの火種は消える。情報の伝達効率を100%に近づけようとする試みは、結局のところ、ノイズを許容しないということであり、それは何も語っていないのと同じ結果を招く。15万円もするモンブランの万年筆を胸ポケットに挿し、滑らかなインクフローで「持続可能な成長」などという空虚な経営計画を書き記す時、そのペン先から零れるのはインクではなく、物理法則に対する最大の皮肉だ。どんなに高価な道具を使おうとも、その摩擦熱一つさえ、宇宙の無秩序を増大させるための徴収票なのだから。
散逸への逃走
結局、我々に残された道は二つしかない。一つは、このまま緩慢な定常状態の中で、エントロピー生成を最小限に抑えながら、熱死という名の定年退職を待つこと。窓の外の景色が変わらないように、自分のデスク周りの景色も固定し、思考を停止させ、ただ細胞が劣化していくのを待つ。それは穏やかな死だ。
もう一つは、あえてシステムに過剰なエネルギーを流し込み、予測不可能な「散逸」を引き起こすことだ。組織が自律的にイノベーションを起こすためには、システムが「壊れかけ」である必要がある。安定した歯車ではなく、時折火花を散らすような噛み合わせの悪さが、新しい秩序を生むための非線形な反応を誘発するのだ。
昨日の若手社員には、結局何も言わなかった。彼がいつか、自分の仕事が「完璧に回っている」と感じた瞬間に覚えるであろう、正体不明の虚無感。それこそが、彼の内なるエントロピーが極大に達し、もはやこれ以上の秩序形成が不可能になった合図だ。その時、彼は初めて気づくだろう。自分が守ろうとしていた安定が、実は自分の首を絞めるロープであったことに。
外は雨だ。低気圧という巨大な熱力学的ゆらぎが、私の神経系をかき乱している。頭痛がする。だが、この不快感こそが、私がまだ平衡状態に達していない、生きているという証左なのだろう。平衡状態にある死体は、天気痛を感じない。
すっかり冷え切った蕎麦の汁を飲み干した。塩分濃度の上昇という外部摂動に対して、私の腎臓が懸命にエントロピーを排出しようと駆動し始めるのを感じる。全く、生命とは、組織とは、なんと騒がしく、そして無駄な熱に満ちた構造体なのだろうか。
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