前回は、組織という名の蟻地獄がいかにして個人の時間を咀嚼し、排泄するかという「労働の代謝系」について話し込んだ。今日はもう少し、その排泄物――我々が「公共性」や「合意」と呼んでいる、あの実体のない、脂ぎった霞について解剖してみよう。
よく「心を一つに」などと寝言をのたまう輩がいるが、あれは計算機科学的に言えば、単なるパケットの衝突回避に過ぎない。我々が新橋の薄汚れた居酒屋で、鮮度も怪しいクソ高い刺身を突きながら「社会はこうあるべきだ」と管を巻くとき、そこで起きているのは高尚な魂の交流などではなく、情報の統計多様体上における、血も涙もない座標移動なのだ。
統計的な家畜小屋
そもそも「公共性」とは、個々人の脳という閉鎖系に格納された、身勝手で歪な確率分布が、無理やり一つの狭いキャンバスに押し込められた際に生じる「皺」の総称である。統計学的に見れば、社会とは「意見」という名のノイズまみれのデータポイントが、無秩序に散布された多次元空間だ。そこには、整合性も美学もない。
我々が「議論」と呼ぶあの不毛な儀式は、数学的にはフィッシャー情報行列をこねくり回し、パラメータ空間の曲率を確認する作業に等しい。誰かが「多様性が大事だ」と叫ぶとき、それは情報幾何学の観点からは、多様体の次元を増やして特異点を回避しようとする、醜い生存本能の現れだ。だが悲しいかな、次元が増えれば増えるほど、合意という名の「解」に到達するための計算コストは、我々の薄っぺらな財布の中身を嘲笑うかのように、指数関数的に増大する。
これは、湿度の高い雨の日の立ち食いそば屋で、300円の「かけ蕎麦」ですするべき昼飯に、わざわざトッピングを全部乗せした「二郎系」を社会全体で強制的に食わされる不快感に近い。かけ蕎麦なら300円と3分で済む話が、公共性という名の全部乗せを目指すと、待ち時間は無限に、コストは国家予算並みに膨れ上がる。しかも、出来上がったのは誰も望んでいない、冷めて伸びきった麺の山と、どんぶりの縁から垂れる豚の脂だ。それを「民主的な味」だと強弁され、喉に詰め込まれる。
馬鹿みたいに。
我々が日々、不毛な会議で削り取っているのは、気高い魂などではなく、この世界を記述するための情報的な「純度」であり、その損失は、残業代にも満たない安っぽい虚無感として、静かに血管の内側に蓄積される。
距離という名の断絶
情報幾何学の泰斗、甘利俊一が示したように、確率分布の間の「距離」は通常のユークリッド距離とは異なる。それは「KLダイバージェンス」という、非対称でいびつな物差しで測られる。私が君を理解したと思っても、君が私を理解しているとは限らない。この絶望的な非対称性こそが、コミュニケーションの正体だ。
合意形成とは、このダイバージェンス(乖離)を最小化するプロセスだ。Aさんの卑屈な信条と、Bさんの薄汚い利害を、無理やり一つの平均的な分布に近似させる。その過程で、個人の微細なこだわりや、夜中にふと抱く死への恐怖、あるいは誰にも言えない性的な嗜好といった、生命にとって最も重要な「高周波成分」は、計算の邪魔なノイズとして容赦なく切り捨てられる。
これが公共性の正体だ。平均化という名の、平坦な暴力。
最近、地下鉄の澱んだ空気の中で、この無駄に洗練されたノイズキャンセリングヘッドホンを装着し、何かに怯えるように目を閉じている連中がいる。あれは、公共性という名の統計的ノイズ――つまり隣席の男がガムを噛む咀嚼音や、薄っぺらなゴシップ話――から自分を物理的に隔離するための、現代における「特異点」の構築だろう。あんなプラスチックの塊に、数ヶ月分の食費に匹敵する大金を払う神経は理解し難いが、周囲の低質な合意形成から耳を塞ぎ、情報のエントロピーから逃れたいという、その浅ましい絶望だけは、教授として同情を禁じ得ない。
確率空間において、他者との距離を縮めることは、自分の情報量を希釈することに他ならない。誰かと分かり合えたと錯覚した瞬間、君のユニークなパラメータは、社会という名の灰色の平均値に収束し、消失している。君という個体は、そこで死んだのだ。
なんだこれ。
摩耗する幸福の残骸
熱力学の第二法則は、社会システムにも容赦なく適用される。合意形成という「情報の整理」を行えば行うほど、系全体のエントロピーは外部へと排出され、我々の生活圏を汚染する。それが、我々の感じる「得体の知れない疲れ」であり、この国の空気中に充満している、カビのような「閉塞感」の正体だ。
使い古したスマホのバッテリー劣化を思い出してほしい。充放電を繰り返すごとに、内部の化学構造は不可逆的に崩壊し、最大容量は減っていく。社会も同じだ。民主主義的な合意という名の、不毛な充放電を繰り返すたびに、我々の公共性という器は、少しずつ保持できる「熱」を失っていく。一度劣化した社会は、二度と元の容量を取り戻すことはない。
合意とは、美しき調和などではない。相互の妥協という名の、耐え難い「情報の摩耗」だ。フィッシャー情報計量は、その多様体の曲がり具合を、冷徹に記述する。曲率が高い場所、つまり利害が激しく対立するドブ川のような場所では、そこを移動するだけで莫大なエネルギーを消費し、我々の精神はボロ雑巾のように擦り切れる。
我々は今、あまりにも多くの「正しさ」を定義しすぎた。多様体は悪趣味な迷路のように複雑に折れ曲がり、もはや測地線(最短経路)を見出すことすら困難な、情報のジャングルと化している。そこでは、集合知はもはや機能せず、単なる確率的なカオスと、声の大きい馬鹿の怒鳴り声が支配する。
腹が減った。
結局のところ、我々が「公共の利益」と呼んでいるものは、統計多様体上の霧に包まれた、座標すら不確かな一点に過ぎない。そこへ辿り着こうと足掻けば足掻くほど、我々は個としての鮮やかな輪郭を失い、滑らかな、しかし何の意味も持たない「分布の平均」という名の、無機質な泥へと成り下がっていく。
さて、この不毛極まりない講義を終えて、私は独りで路地裏の安酒を煽りに行くとする。そこには合意も、公共性も、情報幾何学的な最適解も存在しない。ただ、エントロピーが増大し、意識が混濁し、世界がゆっくりと壊れていくのを、静かに眺めるだけの無価値な時間がある。
帰りたい。早く、このノイズだらけの場所から。
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