腐敗の集積
まず、君の目の前にあるデスクの隅を見てみたまえ。そこに薄っすらと積もった埃(ほこり)、それこそがこの世界で唯一、嘘をつかない真実の姿だ。君がどれだけ「持続可能な成長」だの「イノベーションの創出」だのと、耳当たりの良い言葉で空間を飾り立てようとも、物理法則は冷酷なまでに正直だ。秩序あるものは、放っておけば必ず崩壊し、腐敗し、無意味な粒子の羅列へと還っていく。これを君たちは「汚れ」と呼んで忌み嫌うが、実際には、君たちが必死で維持しようとしている「会社」や「社会」という幻想の、成れの果てに過ぎない。
熱力学の観点から言えば、生命や組織といったシステムは、自らの内部に秩序を保つために、外部へ向かって絶えずエントロピーを捨て続けなければならない「散逸構造」だ。わかりやすく言えば、君という個体が今日一日、涼しい顔でキーボードを叩いていられるのは、どこかの誰かが泥水をすすり、別の場所で大量のゴミが焼却され、膨大なエネルギーが熱として宇宙空間に無駄捨てされているからに他ならない。君の清潔なワイシャツは、世界のどこかで増大した汚濁の対価として存在している。
この残酷な収支決算から目を背け、君たちは今日も「価値創造」などというお題目を唱えている。だが、その実態はどうだ? 組織という巨大な胃袋を動かすために、君たちは自らの神経をすり減らし、ストレスという名の真っ黒な煤(すす)を排出し続けているだけではないか。
二郎系ラーメンとしての組織論
この構造的な欠陥を理解するために、君が愛してやまない「二郎系ラーメン」を補助線として引いてみよう。あれは食文化というよりも、一種の自傷的な儀式に近い。丼の中に積み上げられた暴力的なまでの脂、炭水化物、そして致死量のナトリウム。あれは君の生命維持に必要なエネルギーを遥かに超えた、過剰な「秩序」の塊だ。
君はその過剰な秩序を体内に取り込むことで、一時的な万能感――脳内麻薬による偽りの幸福――を得る。だが、その代償は即座に支払われることになる。数時間後に襲い来る強烈な腹痛、血管を駆け巡る血糖値の急上昇、そして翌朝の満員電車で周囲の乗客を無言の殺意で包み込む、毛穴から噴き出すニンニクの悪臭。これらすべてが、システムが秩序(満腹感)を維持するために外部へ吐き出したエントロピーだ。
現代の企業組織も、この脂ぎったラーメンと何ら変わらない。本来ならば、乾麺を茹でてつゆにつけるだけの「かけ蕎麦」のような最小構成で機能するはずの業務に、君たちは不安と見栄という名のトッピングを際限なく積み上げていく。「念のための確認会議」、「形骸化した承認フロー」、「誰も読まない議事録の作成」。これらはすべて「アブラ・マシマシ・ヤサイ・カラメ」だ。組織の構成員たちは、この消化不良を起こしそうな脂っこい業務フローを必死で嚥下し、その結果として胃を荒らし、精神を病み、オフィスという閉鎖空間に「不機嫌」という名の毒ガスを充満させている。
君が電車の中で感じる、あの息が詰まるような閉塞感の正体は、都市という巨大な散逸構造が排出した熱気そのものだ。君たちは互いに互いの排熱を浴びせかけながら、それでも「会社」という幻想を維持するために、今日も死んだ魚のような目で揺られている。
脳という名の臆病な装置
では、なぜ人間はこれほどまでに非効率で、苦痛を伴うシステムに依存し続けるのか。ここで神経科学の知見を借りるならば、それは君の脳が極度なまでの「臆病者」だからに他ならない。
カール・フリストンらが提唱する理論を極めて俗俗的に解釈すれば、脳とは「予測誤差を最小化したがる引きこもり」だ。外部環境の変化、未知のトラブル、上司の気まぐれな叱責――こうした「サプライズ(驚き)」は、脳にとって計算コストのかかる厄介事でしかない。脳はこのコストをケチるために、世界を単純化し、自分自身を予測可能な「定数」へと押し込めようとする。
君がマニュアルを盲信し、個性を殺して社畜として振る舞うとき、君の脳は歓喜している。「ああ、今日は昨日と同じだ。新しいことを考えなくて済む」と。君が仕事に感じている「安定」や「帰属意識」の正体は、単なる計算サボタージュの結果であり、魂の充足などでは断じてない。それは、変化という荒波に立ち向かうことを放棄した精神が、死んだように生きることを選んだ瞬間に分泌される、安っぽい鎮痛剤だ。
こうして君は、組織という機械に組み込まれた交換可能な部品となる。だが、部品としての君にはメンテナンスが必要だ。連日の長時間労働とストレスによって、君の脊椎は重力という物理法則に敗北しつつある。スマートフォンのバッテリーが充放電を繰り返すたびに最大容量を劣化させていくように、君の肉体というデバイスもまた、不可逆的な損耗の過程にある。その崩れゆく身体を少しでも長く稼働させるために、君はなけなしのボーナスを叩いて高機能オフィスチェアへと縋り付く。
人間工学に基づいたメッシュ素材が君の腰を優しく包み込んだところで、それは根本的な解決ではない。それは、廃棄寸前の旧式アンドロイドが、ガタの来た関節を補強するために高価なガムテープを買い漁っているようなものだ。30万円の椅子に座ろうが、床に座ろうが、君がすり減らしている「生命時間」というリソースは戻ってこない。君はただ、より快適な姿勢で、緩やかな死へと向かっているに過ぎない。
熱的死への時間稼ぎ
結局のところ、あらゆる事業活動、あらゆる労働は、熱力学的な「平衡状態」――すなわち死――への到達を、いかにエレガントに先延ばしにするかという、涙ぐましい抵抗でしかない。君が徹夜で作成した美しいプレゼンテーション資料も、翌日には市場というカオスの中に投げ込まれ、誰の記憶にも残らぬまま電子の海へと霧散する。それは、燃え盛る火炉の中に、数枚の紙切れを投げ込んで「火を消そう」としているようなものだ。
情報幾何学的な視点に立てば、組織が描く「事業計画」というモデルと、現実の市場という「統計的真実」の間には、永遠に埋まらぬ乖離(カルバック・ライブラー情報量)が存在する。君たちはその乖離をゼロにしようと必死に会議を重ねるが、それは蜃気楼に向かって走るようなものだ。近づいたと思った瞬間、現実はまた別の形へと変貌し、君たちを嘲笑う。
さて、そろそろこの話も終わりにしよう。これ以上、君の脳に「不都合な真実」というノイズを入力し続けると、君の予測誤差が限界を超え、自己防衛のために耳を塞いでしまうだろうから。
今夜、君が居酒屋の暖簾をくぐり、アルコールで脳の前頭葉を麻痺させる行為。それもまた、過熱した脳というエンジンを冷却するための、必要な排熱処理だ。ジョッキの底に残ったぬるいビールと、解決することのない愚痴。それが君の労働の対価であり、君が生きた証として世界に残す、わずかなエントロピーの残滓だ。
勘定はそこに置いておけ。
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