幾何学的嘔吐

前回、私は孤独がいかに知的で贅沢な営みであるかを、壁に向かって語り尽くしたはずだ。だが、どうやらこの世間という名の巨大な排泄機構は、私をその悪臭漂う渦の中へ引き戻さずにはいられないらしい。扉を一枚隔てた向こう側には、「公共性」だの「チームワーク」だのという、耳当たりの良い泥濘(ぬかるみ)が広がっている。

よく「みんなの意見を合わせれば、より良い答えが出る」などと正気で抜かす輩がいる。「集合知」などという幻想を信じている連中に問いたい。それは、食い残しの残飯を一つのバケツに集めて「究極のスープ」と呼ぶ行為と何が違うのか。私に言わせれば、それは個々のこだわりを丼の底に沈めた二郎系ラーメンのようなものだ。「ニンニク、ヤサイ、アブラ、カラメ」。個別のパラメータを限界まで積み上げ、丼の縁からヘドロのように溢れ出すあの質量を、貴様らは「多様性の調和」と呼ぶのか? 底に沈んだふやけた麺――かつて個性と呼ばれた死体――の味など、もはや誰にも分からない。ただ、胃もたれという名の後悔だけが、組織という名の内臓を蝕んでいくのだ。

馬鹿みたいに。

座標:割り勘という名の地獄

社会学者が好んで使う「公共性」という言葉を、情報幾何学のメスで解体してみよう。高尚な数式など不要だ。「公共的な場」の実体は、金のない学生やサラリーマンが安い居酒屋で繰り広げる、泥沼の割り勘作業に集約される。情報幾何学などという高尚な皮を剥げば、そこにあるのは「いかに他人の皿から肉を奪い、自分の支払いを最小化するか」という卑しい確率分布のぶつかり合いだ。

我々が「意見の不一致」と呼ぶものは、多様体上の距離ではない。それは、隣の席の男が吐き出すタバコの煙が、自分の注文したばかりの刺身に触れるかどうかの瀬戸際の不快感だ。フィッシャー情報計量とは、その不快な煙の密度を、我々の神経系がどれほど敏感に察知し、血圧を上昇させるかという「怒りの物差し」に過ぎない。例えば、会議で誰かが「もっとクリエイティブに!」と叫んだとき、場の情報構造がどれほど歪むか。もしその叫びが誰にも響かなければ、その多様体上の距離はゼロ。つまり、その発言は存在しなかったも同然だ。

組織が「一丸となる」という状態は、この多様体上の全点が一つの座標に収束しようとする特異点的な挙動を指す。だが、人間という生物は神経系に固有のノイズを抱えている。スマホのバッテリーが劣化して、100%と表示されながら突然電源が落ちるように、人間の合意形成もまた、見かけ上の充足感とは裏腹に、内部では熱力学的な崩壊を待つばかりの不安定な平衡状態にある。

やってられん。

曲率:背骨を砕くアルゴリズムの鉄槌

最近の流行りは「AIアルゴリズムによる組織統治」だそうだ。リーダーシップという名の、あの上司の口臭漂う精神論を、クリーンなコードに置き換えようというわけだ。これは経営学的な進歩ではなく、リーマン多様体における「曲率の管理」という名の幾何学的拷問装置の導入に他ならない。

組織変革とは、既存の歪んだ人間関係というトポロジーを、アルゴリズムというプレス機で無理やり引き剥がし、平坦に押し潰すプロセスだ。このとき発生する「痛み」を、凡庸なコンサルタントは「心理的抵抗」や「チェンジマネジメントの摩擦」などと呼ぶ。ふざけるな。物理学的に見れば、それは単なる幾何学的な歪みエネルギーの散逸であり、20年かけて築き上げた「サボりのテクニック」や「窓際での静かな死」を、最短経路(測地線)という冷徹な演算で抹消される個人の、断末魔の叫びだ。

アルゴリズムは、この歪みを最小化する経路を冷徹に計算する。そこには「課長の面子」も「勤続20年のプライド」も、病弱な母を抱える事情も変数として存在しない。あるのは、フィッシャー情報行列の行列式を最大化し、予測誤差を最小化するという目的関数だけだ。

効率的だよ、確かに。だが、その最短ルートを走るために、我々は何を捨てている? 例えば、もはや直立歩行すら忘れるほどディスプレイを睨み続け、軋む腰椎をごまかすために慢性的な疲労を椅子ごと買い換えるという敗北宣言を行う。30万円もするメッシュと樹脂の塊に深く沈み込み、腰の負担を数ミリメートル単位で分散させながら、アルゴリズムが弾き出した「最適解」をただ承認するだけの存在に成り下がる。大金を払って、自分がただの「精緻な部品」であることを確認する場所を買い求めているのだから、笑いが止まらない。

なんだこれ。

消失:精製水の中で溺れる

最終的に、AI統治が完成した組織において「公共性」は消失する。なぜなら、公共性とは本来、異なる分布を持つ者同士が、互いの「食欲」や「生理的嫌悪」という埋めようのない距離を、言葉という不完全な道具で罵り合いながら埋めようとする、あの不潔で人間臭いプロセスの中にしか存在しなかったからだ。

アルゴリズムが全ての情報の非対称性を解消し、フィッシャー情報計量を鏡面のように平坦化してしまえば、そこには衝突も対話も存在しない。ただ、最適化された情報の層が、冷たく、滑らかに重なっているだけだ。それは、かけ蕎麦のつゆのように澄み渡っているが、出汁の旨味もなければ、ネギのアクセントさえない、純粋な精製水の多様体である。一口すすれば、そのあまりの空虚さに嘔吐するだろう。

人間が抱く「納得感」や「帰属意識」といった感情は、この情報幾何学的な演算における計算誤差、あるいはシステム上のバグとして処理されるようになるだろう。我々の脳が分泌するドーパミンは、アルゴリズムの勾配降下法を加速させるための潤滑油に過ぎなくなる。

さて、思考を止める時間だ。高尚な数式も、歪んだ多様体も、空腹という名の絶対的な物理法則の前では無力だ。今の私にとって唯一の真実は、この冷め切ったコンビニ弁当の底に溜まった、不自然に黄色い油の塊を飲み干すべきかどうか、という一点に尽きる。

消えろ。

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