会議室の淀みと脳内報酬系の欺瞞
昨日も、空調の効きすぎた会議室で、脂肪の付きすぎた中年たちが「公共の利益」などという、実体のない幽霊を追いかけていた。彼らが口にする「納得」という言葉の裏側には、単に「これ以上考えるのが面倒だ」という思考停止の脂汗がべっとりと張り付いている。かつてユルゲン・ハーバーマスが夢想した公共圏は、理性的な対話によって合意が紡ぎ出される神聖な空間だったはずだ。だが、現実のビジネス現場や政治の舞台で起きているのは、単なる情報の殴り合いであり、互いの利己的な生存戦略が衝突し、火花を散らす不毛な荒野である。
私が吐き気を覚えるのは、その不毛さを「民主主義」や「対話」という美しい包装紙で包み隠そうとする、その図々しさに対してである。誰かが「納得感」という言葉を口にするたび、私は胃のあたりに微かな不快感を覚える。その「納得」とやらは、脳内報酬系が一時的な安寧を得るための、いわば精神的な栄養剤に過ぎないからだ。
そもそも、我々が「合意」と呼んでいる現象は、統計的な多様体の上で記述される確率分布の重なりに過ぎない。そこには情熱も正義もなく、ただ情報幾何学的な「距離」の問題が横たわっているだけなのだ。馬鹿みたいに。
摩擦:券売機前の停滞とエントロピー
職場の忘年会の店選びでも、昼食の選択でもいい。例えば、昼下がりの立ち食い蕎麦屋で、背後に十人以上の殺気立ったサラリーマンの行列を従えながら、券売機の前で小銭を数え始める老人の背中を想像してほしい。あの瞬間に発生する、空間全体が軋むような「摩擦」こそが、合意形成の正体だ。
一方は「かけ蕎麦」のような無機質な効率と速度を求め、もう一方は「トッピング全部乗せ」のような過剰な自己顕示と緩慢な時間を要求する。食券機のボタンに付着した油汚れのように、個々の欲望は粘着質で、容易には剥がれ落ちない。この、あまりに俗で、あまりに噛み合わない要望の束(確率分布)を一つの「結論」に押し込める作業は、純粋な物理的苦痛を伴う。
ここで発生する凄まじい摩擦は、熱力学におけるエントロピーの増大そのものである。従来のガバナンス論では、この摩擦を「コミュニケーション不足」という感傷的な言葉で片付けてきた。しかし、真の問題は神経科学的な個体差にある。各人の脳内にある信念の確率分布は、それぞれ異なる多様体を形成しており、その間のKLダイバージェンス(情報的な距離)を無理やり縮めようとすれば、当然、熱が発生する。
スマホのバッテリーが経年劣化で膨張していくように、組織の活力もまた、この不毛な「すり合わせ」によって損耗していく。一回の無意味な会議は、人生の貴重な数時間をドブに捨てるだけでなく、二度と回復しない「他者への期待」という資源を確実に削り取っていくのだ。我々は日々、微量の魂をすり減らしながら、誰も望んでいない「合意」という名の墓標を建てているに過ぎない。
曲率:静寂を金で買う惨めさ
AIによるガバナンスが期待されているのは、この人間的な「熱」をバイパスできると考えられているからだろう。だが、ここには大きな落とし穴がある。AIが学習するデータセット、つまり「情報多様体」には、固有の曲率が存在する。多様体が平坦であれば、点A(意見A)から点B(意見B)へ移動するのは容易だ。しかし、現代社会の公共圏は、極めて高い曲率を持ったグニャグニャの空間である。
欲望と偏見が複雑に絡み合い、歪んだ空間の中で、我々はその曲率に耐えかねている。例えば、通勤電車の中で多くの人間が装着している、この静寂を金で買うための装置を見てほしい。単に外音を遮断するだけの道具に、数万円もの対価を払う人間の心理。これは、複雑すぎる世界(多様体)の曲率が生み出すノイズに耐え切れなくなった個体が、強制的に自身の観測系をシャットダウンしようとする試みではないか。周囲の騒音——他者の存在という圧倒的な不快——を物理的に遮断しなければ、我々の脆弱な自我は瞬時に崩壊してしまうのだ。
統計多様体論の視点に立てば、ガバナンスとは「フィッシャー情報行列」という計量を用いて、社会全体の不確実性を制御するプロセスだ。AIはこの空間を高速で移動し、最適解(のように見える点)を提示する。だが、その計算過程で「人間の感情」というバグは、単なるノイズとして平滑化される。AIガバナンスが目指す「合意」も、これに近い。全体を最適化するために、局所的な「こだわり」という特異点を切り捨てる。
合意形成とは、結局のところ、全員が等しく「少しずつ、だが確実に不幸になる」地点を、幾何学的に特定する作業に他ならない。それを「民主主義の勝利」と呼ぶか「アルゴリズムの暴力」と呼ぶかは、単なるレトリックの問題だ。首を吊るロープの材質を自分で選べたことに満足する囚人の心理と、何ら変わりはない。
消失:情報の熱力学的死
結局、AIによって再構成された公共圏において、我々の「意志」はどこへ行くのか。情報幾何学的に言えば、個人の意志とは、巨大な多様体の上に描かれた極めて微小なベクトルに過ぎない。それがガバナンスという巨大な重力場に捉えられれば、個々のベクトルの向きなど、統計的な誤差の範囲内に収束してしまう。
我々は「納得」したいのではない。自分の存在が、この巨大な情報処理の行列計算の中に、ほんの数ビットでも影響を与えたという実感が欲しいだけなのだ。だが、AIが導き出す「客観的な最適解」の前では、その主観的な願いは、劣化したバッテリーから漏れ出す微弱な電流のように、虚しく霧散していく。
かつて、場末の赤提灯で上司への呪詛を吐き散らしていたサラリーマンたちのあの醜悪なボヤキ。焼き鳥の串を弄びながら「最近の若者は……」と零していたあの非生産的な時間。あれこそが、実は情報の多様体が持つ「曲率」に対する、最後の人類的な抵抗だったのかもしれない。今の我々は、洗練されたインターフェースと、ノイズ一つないアルゴリズムに飼いならされ、摩擦のない滑らかな地獄を、心地よい眠りとともに滑り落ちている。
帰宅途中の電車の窓に映る自分の顔が、ひどく記号的に見える。会議室に残された、飲みかけの冷めたコーヒーの膜。それが、今日私が行った唯一の「公共への介入」であったとしても、もはや驚きはしない。合意とは、統計学が我々に見せる白昼夢であり、その夢から覚めた後に残るのは、ただ数値化された絶望だけなのだから。
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