前回の、あの安焼酎の臭いが充満する店で吐き捨てた「効率化という名の緩慢な自殺」について、君の貧弱な灰白質はまだ記憶の痕跡を保持しているだろうか。効率を極限まで突き詰めれば、最後に残るのは「不純物」としての人間そのものだという、あの救いようのない熱力学的な結論だ。
目の前の、すっかり伸びきって糊のようになった「かけ蕎麦」を見てみろ。出汁という名の電解質溶液の中に沈んだ、炭水化物の成れの果てだ。これは本来、調理人の労働というエネルギーが、混沌とした粉と水に注入され、「麺」という一時的な秩序(低エントロピー状態)を強制した結果だ。だが、君がこれを啜り、咀嚼し、内臓の蠕動運動で分解した瞬間に、その秩序は崩壊し、排泄物と低品位な熱エネルギーへと成り下がる。宇宙の残酷なルール――万物は放っておけば腐り、散らばり、均一なゴミになる。エントロピーは増大する。
我々が崇高な顔をして「仕事」と呼ぶ営みも、本質的にはこれと同じだ。空調の効いたオフィスでデスクに座り、死んだ魚のような目でキーボードを叩いて情報の断片を整理する。これは外部から電気エネルギーとカロリーを無駄に注入して、その場しのぎの「整理整頓」をしているに過ぎない。かつての社会学者が「労働は自己実現だ」などと寝言を抜かしていたが、物理学的に見れば、それは「宇宙が熱的死を迎えるまでの時間を、ほんの数秒だけ無駄に抗って引き延ばそうとする局所的な足掻き」でしかない。
馬鹿げている。金のために、自分の生物学的時間を切り売りしてエントロピーを下げ、他人の利益という名のかりそめの秩序を作っているんだ。
秩序
さて、現代においてこの「秩序構築」を主導するのは、もはや我々のような汗と脂と安酒にまみれた炭素の塊ではない。自律的な演算機械、つまりシリコンの知性が、我々が数世紀かけて積み上げてきた言語や論理を、瞬時にして無機質なベクトル空間へと再配置してしまう。
かつて、職人が何年もかけて磨き上げた「勘」や「コツ」という名の、血の通った情報は、今や確率的な重み付けによって、より正確に、より冷酷に再現される。人間が額に汗して、あるいは精神を摩り下ろして行っていた作業は、今やサーバーラックの中で静かに、そして軽蔑的なファンの回転音と共に完結してしまう。
これを世間では「高度な自動化」と呼んで祝杯を挙げているが、私に言わせれば、それは単なる「腐敗の外部委託」だ。人間が秩序を作る苦しみから解放された結果、残されたのは「出力された結果を無心で浪費するだけの、歩く熱源」としての無残な姿だ。二郎系のラーメンに致死量のニンニクをぶち込み、スマホの液晶保護フィルムに付着した自身の皮脂を眺めながら、通知の濁流に溺れる。そこには何の美学もなく、ただただバッテリーが熱を持ち、リチウムイオンが劣化していくのを待つだけの時間が流れている。
なんだこれ。
驚くべきことに、この無機質な自動化社会においても、人間はなおも「所有」という名の非合理な呪縛にしがみつこうとする。例えば、私の隣席の男が悦に入って点灯させる、青白いデスクライトを見てほしい。単に網膜に光子を叩きつけ、高効率な労働を強いるための「尋問室の明かり」に過ぎない装置に、なぜ一ヶ月分の食費を超える金額を支払えるのか。物理学的には、街灯の薄汚い光もそれも、エネルギーの質に大差はない。しかし、彼はその「ブランド」という名の、実体のない虚飾の秩序に執着する。あるいは、重力に抗って歯車を回し続けるだけの機械式時計を腕に巻き、死までの秒読みを刻むだけの高価な手枷を自慢げに見せびらかす。エントロピー増大の法則から逃れようとするその必死な姿は、もはや滑稽を通り越して、故障したブリキのおもちゃのように哀れだ。
攪拌
ここで少し視点を変えて、情報幾何学の領域へ踏み込んでみよう。価値とは、平穏な日常に投げ込まれた「石」だ。期待値からの乖離、すなわちサプライズこそが情報の価値だ。完全に予測可能な自動化社会において、すべての出力が最適解であるならば、そこに「驚き」は存在しない。つまり、完璧な労働は、逆説的に価値を殺害する。
我々が「人間らしさ」と呼びたがるものは、実のところ、この精緻な演算過程における「エラー」や「機能不全」の別名に過ぎない。満員電車で押し付けられる他人の背中の湿り気、口の中に残る朝のコーヒーの酸味、降りるべき駅を通り過ぎてしまった時の絶望感、どうでもいいSNSの投稿に腹を立てる卑屈さ。これら脳の計算ミスこそが、閉塞した平衡状態を攪拌し、新たな不快な秩序を産む。
自動演算の化け物が、過去のデータの平均値へと我々を家畜のように追い込んでいく中で、我々が保持できる唯一の抵抗は、この「意味不明な無駄」を垂れ流す能力だ。誰も望んでいない機能を無理やり追加し、誰にも理解されない意匠にこだわり、その無駄を「こだわり」と称して自己弁護する。それは、深夜にカップ麺を食べるか、それとも翌朝の胃もたれを気にして我慢するかという、どうしようもなく卑近で、どうしようもなく人間的な葛藤と同義だ。
効率という名の熱的な死へ向かう特急列車の中で、我々はあえて窓を叩き割り、騒音を撒き散らし、無意味な叫びを上げる必要がある。そうしなければ、我々はただの「熱伝導体」として、静かに冷えていくだけだ。周囲の温度と同じになり、個としての輪郭を失う。それが熱平衡、すなわち死だ。
散逸
絶望の帰結として、労働が真の「価値」を失う日は、労働が「完璧」になった日だ。高度な自動化は、社会全体の予測可能性を高め、管理された家畜小屋のような安寧をもたらすだろう。しかし、その無菌状態の静寂の中で、我々の意識という名のバグは、刺激を求めて飢え、互いの足を引っ張り合う。
「やりがい」という名の神経報酬系を騙すために、我々はわざわざ困難を捏造し、わざわざ遠回りな手法を選び、わざわざ高価なゴミを買い漁る。それは、砂漠で自分の影に向かって石を投げる子供の遊びだ。だが、その石が砂に落ちるまでの短い時間だけ、我々はエントロピーの冷酷な重力から目を逸らすことができる。
シリコンの奴隷主人が導き出す「最適解」という名の死。それに対抗できるのは、我々が持つ「飽き」という名の欠陥だけだ。飽きるからこそ、次のゴミを欲する。飽きるからこそ、築き上げた秩序を自ら破壊する。我々の存在意義は、何かを構築することではなく、構築されたものに「反吐が出る」と言って背を向けることにこそ宿っている。
さて、この完全に冷めきった蕎麦をどうにかしなければならない。伸びきった麺は、もはや秩序ある食品ではなく、物理学的な平衡状態に達した「質量」でしかない。これを胃に収めることは、負のエントロピーの摂取というよりは、単なる生ゴミの焼却作業に近い。
宇宙は、我々が何を悩み、どのような高度なシリコンの脳を生み出そうとも、最終的には一律の温度へと薄まって消える。その巨大な虚無を前にして、我々にできることは、せいぜい明日の朝、不快なアラーム音という名の「秩序」に対して、力いっぱい中指を立てることぐらいだろう。
次の会議が始まる。そこでは、自動生成されたグラフが踊り、最適化された中身のない言葉が飛び交う。私はそこで、誰の耳にも届かないような、とびきり下品でノイズに満ちたボヤキを、その無菌室のような空間にぶちまけてやろうと思っている。
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