駅前の立ち食い蕎麦屋で、揚げ置きされて湿気を吸い込み、もはや小麦粉の塊と化したかき揚げを眺めながら思う。なぜ我々は、毎朝決まった時間に目覚め、満員電車という名の人間圧縮機に自らを詰め込み、都市という巨大な排熱機構の一部として機能しなければならないのか。隣の男の湿ったスーツから漂う生乾きの臭いと、整髪料の甘ったるい香りが混ざり合った不快な空気を肺に取り込むたび、私の生物としての生存本能が警鐘を鳴らす。だが、足は止まらない。我々はベルトコンベアに乗せられた規格品の部品のように、死んだ魚のような目をしてオフィスビルへと吸い込まれていく。
世の経営学者や意識の高いコンサルタントどもは、「組織の成長」だの「パーパス経営」だのと、耳当たりの良い言葉でこの営みを飾り立てる。しかし、物理学の冷徹な視点から見れば、労働とは単なる「非平衡熱力学的な散逸プロセス」に過ぎない。組織というシステムが、周囲の環境から資源という低エントロピー(若者の時間、投資家の金、地球の資源)を貪欲に摂取し、その代償として従業員の精神的疲労、組織内の軋轢、そして無意味な書類の山という高エントロピーを社会に垂れ流す。その膨大なエネルギー浪費の過程で、たまたま「利益」という名の局所的な秩序が形成されるだけの現象だ。我々はその排泄プロセスを「仕事」と呼び、神聖視しているに過ぎない。
いわば、現代の会社組織とは、出来損ないの「二郎系ラーメン」のようなものである。本来、空腹を満たし栄養を摂取するという目的を果たすだけなら、かけ蕎麦一杯、あるいは点滴でも十分なはずだ。しかし、組織が肥大化し、自己目的化するにつれ、背脂(無能だが給料だけは高い中間管理職)や、野菜マシマシ(誰も読まないコンプライアンス規定)、ニンニク(精神論だけのスローガン)が無秩序に盛られていく。スープの温度は下がり、麺は伸びきってデンプンの糊となり、もはやそれが食べ物なのか、産業廃棄物なのかも判然としないどんぶりを、我々は「事業」と呼んで必死に啜っている。食えば食うほど血管は詰まり、内臓脂肪は蓄積し、翌朝には激しい胃もたれと下痢に見舞われることが分かっていながら、中毒者のようにその列から離れられない。この行列の先に救いがないことを、本当は全員が知っているにもかかわらず。
散逸
ノーベル化学賞を受賞したイリヤ・プリゴジンは、外部とのエネルギー交換がある系において、散逸によって自己組織化が生じる「散逸構造」を説いた。ビジネスにおけるスタートアップなど、カオスの中から突如として発生したボウフラのようなものだ。激しく動き回り、エネルギーを食らい尽くすことで一時的な形を保つ。しかし、問題はそのボウフラが成長し、組織として「相転移」を迎えた後に訪れる。
組織が成熟し、「公共性」という名の重たいコートを羽織り始めると、システムは急速に平衡状態――すなわち「熱的な死」へと向かう。熱力学第二法則は、君の銀行口座の残高が給料日前に減っていくのと同じくらい、あるいはそれ以上に冷酷で不可逆だ。閉鎖されたオフィスという系において、エントロピーは増大し続ける。かつては俊敏だった意思決定は、今や幾重にも重なる「承認フロー」という名の断熱材によって阻害される。情熱やアイデアといった熱量は、稟議書にハンコが押されるたびに冷却され、末端の現場に届く頃には、すべて「社内政治」という不毛な摩擦熱として大気中に霧散している。オフィスが常に何となく蒸し暑く、息苦しいのは、空調のせいではない。無駄な会議と根回しが生み出す排熱のせいだ。
多くの経営者が、この物理的なエネルギーロスを「従業員のやる気」や「エンゲージメント」という精神論で解決しようとするのは、まさに神経科学的なバグと言わざるを得ない。やる気とは、脳内報酬系が一時的にバグを起こして、現在の負債(労働という苦痛)を将来の架空の利益(昇進やボーナス)と相殺している状態に過ぎない。それは、劣化したスマートフォンのバッテリーのようなものだ。充電ケーブル(給与)を繋げば一瞬で100%の表示になるが、少しでも負荷のかかるアプリ(新規プロジェクト)を起動した途端、本体が異常発熱し、数分でシャットダウンする。今の日本の大企業の姿そのものではないか。熱を発しているのは仕事をしているからではない。内部抵抗が増えすぎて、回路が焼き切れる寸前なのだ。
秩序
このエントロピー増大に抗い、崩壊を先延ばしにするために、組織は「構造」を強化しようとする。だが、その手段がまた滑稽なほどに物質主義的で、浅ましい。物理的な摩擦係数を減らせば生産性が上がるとでも信じ込んでいるのか、彼らは15万円以上もする高機能なメッシュチェアを役員室や会議室に並べ始める。布切れとプラスチックと金属の塊に、新入社員の手取り給料分を支払うというその審美眼には恐れ入る。確かにその座面は人間工学に基づき、腰への負担を軽減するかもしれない。だが、どれほど高級な椅子に深く腰掛けようとも、組織構造という泥沼の中で発生する権力闘争の乱気流や、責任の押し付け合いによる摩擦を抑えることはできない。むしろ、椅子が快適になればなるほど、そこに座る人間は根を張り、動かなくなり、組織の動脈硬化は進行する。それは、沈みゆく船の船長席を豪華にするようなものだ。
情報の幾何学的な距離も絶望的だ。トップの意思決定という「点」から、現場という「面」までの距離。組織が公共性を帯び、ステークホルダーという名の寄生虫が増えるほど、この多様体上の距離は無限に引き伸ばされていく。結果として、最前線に届く頃には、情報は「解釈」や「忖度」という名のノイズにまみれ、かつての輝きを失った熱死寸前の残骸となる。「お客様のために」という崇高な理念は、現場に降りてくる頃には「クレームを出させるな」という保身の命令に変換されている。
公共性とは、本来、過熱したシステムを冷却するためのラジエーターであるべきだ。しかし、多くの組織において、それは単に「責任の分散」という名の高性能な断熱材として機能している。全員で決めたことは、誰の責任でもない。誰も責任を取らない、誰も熱を発しない、誰もリスクを冒さない。そうして組織は、均一で平坦な、絶対零度の静寂に包まれた墓場へと変貌する。これを「安定」と呼んで安心しているのだから、人間の認知バイアスにはほとほと感服する。死んでいることと安定していることの区別すらつかなくなっているのだ。
臨界
真に強靭で、まだマシな組織とは、平衡状態にあるものではなく、常に「臨界点」の淵でふらついているものである。崩壊の一歩手前で、激しく金と時間を散逸させながら、外部の変動に対して自己を無理やり接ぎ木し、再定義し続ける動的なプロセス。そこには「やりがい」だの「アットホームな職場」だのといった、安っぽい感傷が入り込む余地はない。あるのは、情報の勾配を敏感に感知し、次の四半期を生き延びるために最適解へと雪崩れ込むための、冷徹な計算資源としての自己だけだ。
我々が「会社のために」と口にする時、それは個体としての生存戦略を放棄し、より巨大な散逸構造に自らを委ねたという敗北宣言に他ならない。細胞が多細胞生物の一部として分化し、自由を失う代わりに寿命という名のエントロピーから一時的に目を逸らすように。我々は組織という宿主に寄生し、その養分を吸うことで、自らの人生という名のシステムが崩壊するのを先延ばしにしているに過ぎない。
だが、忘れてはならない。どれほど巨大な組織という散逸構造も、最終的には宇宙の熱死という普遍的な運命からは逃れられないのだ。駅前の立ち食い蕎麦屋が、明日には安っぽいチェーン店に変わり、やがて無機質なコインパーキングになり、最後には雑草に覆われた更地になるように。すべては散逸し、均質化し、無へと帰する。
さて、伸び切った麺のようにふやけた報告書の続きを書くとしよう。この無駄で生産性のない労働が、せめて今夜、駅ビルの地下で買う半額シールの貼られた惣菜と、安酒の酔いとの等価交換として成立していることを願いながら。
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