腐敗の幾何学

前回、私は「生産性」という言葉を吐き捨てた。それは、空の財布を叩いて音を鳴らすような、救いようのない虚業の話だった。だが、諸君。その空っぽの財布という「器」そのものが、どれほど歪み、腐臭を放っているかに気づいているか。書店に平積みされたビジネス書を貪り読み、そこに書かれた成功の法則をなぞるその行為は、穴の空いたバケツで海水を汲むような無意味な労働だ。彼らが信奉する世界は、ユークリッド幾何学的にあまりにも平坦で、退屈で、そして嘘に満ちている。

現実の事業価値とは、洗練されたオフィスビルのガラス張りの会議室にはない。それは、ぐにゃぐにゃに曲がりくねり、ヘドロの溜まった「多様体」の底に沈殿しているのだ。

多様体

駅前の「かけ蕎麦」を想像してみろ。麺、汁、ネギ。それだけ。原価計算も容易な、清潔で退屈な一次元の世界だ。しかし、そこに「公共性」や「社会的意義」、「SDGs」という名の、吐き気を催すトッピングを盛り付けた瞬間、それは呪術的な「二郎系ラーメン」へと変貌を遂げる。表面を覆い尽くす分厚い脂身(コンプライアンス)が視界を遮り、刻みニンニク(政治的調整)の強烈な臭気が周辺組織の神経を逆撫でし、丼の底には食い切れないほど積み上げられた、冷えて固まったチャーシュー(既得権益)が重く沈んでいる。

この「全部乗せ」の混沌を、情報幾何学的に解剖してみよう。事業価値とは、ある不確定なパラメータによって制御される確率分布の集合体――つまり、逃げ場のない多様体(Manifold)だ。かつて、人間が「現場の勘」や「リーダーシップ」と呼んでいたものは、この歪んだ空間の曲率を、脂ぎった指先でなぞろうとする、精度の低い神経回路のバグに過ぎなかった。我々はこの歪みの中で、平衡感覚を失いながら「価値」という幻覚を見ている。

例えば、公共事業という名の複雑怪奇な多様体において、末端の労働者が「やりがい」を感じる瞬間があるだろう。それは、高次元空間における予測誤差が一時的に減少した際に脳内に垂れ流される、安っぽいドーパミンという名の麻薬だ。情報の幾何学的な構造から見れば、君たちが満員電車で他人の呼気を浴びながら流す脂汗も、残業代のために削り取る寿命も、多様体上の計量を決定するための「フィッシャー情報量」の変数値に過ぎない。君たちの人生のドラマは、数式の一項として処理され、使い捨てられる。

勾配

さて、この複雑怪奇な多様体を、非情な「自動演算装置」がどう変容させているか。計算機は、人間には到底知覚不可能な高次元の「勾配(Gradient)」を、摩擦ゼロの速度で滑り降りる。組織的な推論は、もはやリーダーのカリスマ性(笑)などという不確かな情緒に依存するのではなく、超越論的な最適化アルゴリズム、すなわち、血も涙もない最短経路の探索へと移行しているのだ。

ここで露呈するのが、公共的労働の「曲率」の消失だ。演算が介在することで、組織は「納得感」や「合意形成」という名の無駄な摩擦を徹底的に排除し、測地線を突き進む。結果として、事業価値の空間は極限まで「平坦化」される。かつてそこにあった、歴史の重みや個人の情緒という名の、歩きにくいが美しい凸凹は、情報理論的な圧縮という名のブルドーザーによって根こそぎ削ぎ落とされてしまう。

スマホのバッテリーが劣化し、100%からいきなり0%に転落するように、組織もまた、繰り返される最適化の中で柔軟性を失い、結晶化していく。満員電車のドアに挟まったまま、スマホの画面だけを凝視して最適化された情報を食らう諸君の姿そのものだ。過度に最適化された組織は、見かけの効率は完璧だが、予期せぬ外部ショックという名の負荷がかかった瞬間に、システム全体が爆発四散する。

この平坦で味気ない合理性の海を泳ぐ中で、あえて万年筆のペン先が紙を削る感触に固執し、思考の跡を残そうとする輩がいる。インクが紙の繊維に染み込み、乾くのを待つ時間すら浪費できない現代において、これほど非効率で、かつ滑稽な抵抗はない。これこそが、演算の最短経路から最も遠い場所にある、人間という名の不良品が産み落とした「非合理の美学」という名のゴミだ。黒い樹脂の棒切れに大金を払い、重力に従ってインクが落ちるのを待つ。その無意味さだけが、唯一の救いかもしれない。

散逸

公共性という概念は、物理的に見れば、外部から税金や情熱という名の幻想を絶えず注ぎ込み続けなければ維持できない「散逸構造」だ。組織が「公共的労働」に邁進するのは、それがエントロピーの増大、つまり、自分たちがただの無能な集団として崩壊していく事実を先延ばしにするための、最も効率的な「言い訳」になるからだ。会議のための会議、書類のための書類。それらはすべて、組織の熱死を遅らせるための儀式に過ぎない。

情報幾何学において、二つの確率分布の距離を測る「KLダイバージェンス」という指標がある。公共的労働とは、理想(ありもしない社会の形)と現実(泥沼の組織)の間の距離を埋めるための、壮大で虚しい「推論のプロセス」に他ならない。しかし、自動演算はこの距離を最小化することだけを目的とする。そこに「誰のために」や「何のために」といった物語が挟まる余地はない。あるのはただ、勾配を下りきった後の、凍りついた均衡点だけだ。

諸君が明日、コンビニの底上げ弁当を掻き込み、再び死んだ魚のような目でオフィスへ向かう時、このことを思い出せ。君たちが必死に守ろうとしている「事業価値」は、多様体上のほんの一点の座標、それも、既に演算によって「不要」と断定された座標に過ぎない。結局のところ、我々の労働とは、多様体の上に散乱したノイズを、必死に「意味のある信号」だと思い込もうとして、血を吐きながら行う無意味なカーブフィッティングなのだ。

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です