組織の熱死

前回、私は個人の脳内における「生産性」という名の限定合理性をいじくり回し、その限界を嘆いたわけだが、これが「組織」という複数系の怪物に拡張されると、事態は喜劇を通り越してただの熱損失に成り下がることを認めざるを得ない。一人で夜中に悩むのが「かけ蕎麦のつゆの濃さ」への内省的な葛藤だとしたら、組織での意思決定は「全員で二郎系ラーメンを食べに行き、背脂の量とニンニクの有無、そして野菜のマシマシ具合を完全に同期させる」という、熱力学的に極めて不可能な試みに等しい。

そもそも、他人の意志を統合するなどという傲慢な発想そのものが、飲み残したぬるいビールの泡のような、実体のない幻想なのだ。組織における「合意形成」などという耳当たりの良い言葉を、我々はあたかも高尚な精神活動であるかのように錯覚しているが、実態はただの統計力学的な平衡状態の模索、あるいは単なる「声の大きい奴への屈服」に過ぎない。いや、もっと質の悪いことに、それは情報の確率分布が描き出す「多様体」の上を、鈍重な意識が這い回っているだけの滑稽な光景だ。

摩擦

事業や公共性といった名目で集まる人間たちの目的関数は、数学的に記述すれば、決して一致することはない直交したベクトルだ。営業部は「今月の売上」という、スーパーの半額シールに群がるような卑近なスカラー量を最大化したがり、開発部は「技術的優雅さ」や「リファクタリングの美学」という、現実の市場には存在しない虚数軸で独り遊びに耽る。経営層に至っては、もはや計算不能な「株価」という名の蜃気楼を追いかけ、現場という実数空間に無理難題というノイズを撒き散らす。

このバラバラなベクトルが、加齢臭と冷めたコーヒーの匂いが混じった会議室という閉鎖系に押し込められたとき、何が起きるか。統計学的な「最尤推定」が行われると期待するのは、あまりに人間という欠陥デバイスを信じすぎている。実際に行われているのは、各個人の自我という「ノイズ」の干渉波による、凄まじい摩擦熱の発生だ。部長がこだわっている「スライドのフォントサイズが1ポイント小さい」という指摘や、課長が執拗に気にする「前例との整合性」は、情報幾何学の観点から見れば、確率分布を歪ませる有害な曲率(カーブ)でしかない。彼らは情報の最短経路を求めているのではなく、自分の存在証明という名の「バリ」を多様体の上に刻み込んでいるだけなのだ。

馬鹿みたいに。

この無駄な摩擦による精神的摩耗を軽減するために、彼らは信じがたいほど遮音性の高いノイズキャンセリング・ヘッドフォンを耳に突っ込み、外部からの干渉を物理的に遮断しようとする。数万円もする機材を買ってまで静寂を求めるくらいなら、最初から無能な同僚の声を「ホワイトノイズ」として処理するフィルタリング回路を脳内に実装すればいいものを。隣の席の啜り泣きや、上司の貧乏ゆすりの振動すら、金で解決しようとするその様は、まさに資本主義の末期症状と言えるだろう。

幾何

ここで少し、冷徹な理性のメスを入れてみよう。情報幾何学において、確率モデルの空間はフィッシャー情報計量によって定義される「リーマン多様体」と見なすことができる。組織の意思決定とは、理論上、この歪んだ空間において、現在の「無知」という点から「最適解」という点へ至る「測地線(最短経路)」を見出す作業に他ならない。

しかし、人間の集団はこの測地線を歩くことができない。なぜなら、彼らの認知バイアスが空間の曲率を無限大にまで引き上げてしまうからだ。「俺は聞いていない」という誰か一人の「感情」というバグが発生するたびに、情報空間はぐにゃりと曲がる。直進すれば数秒でたどり着くはずの結論が、彼らのプライドという重力場によって歪められ、永遠に到達しない事象の地平線へと消えていく。

合意形成のために費やされる残業代、無意味に消費されるカフェイン、そして網膜を焼くほどに高輝度な、それでいて不気味なほど高価なデスクライトの明かりの下で書きなぐられる、誰にも読まれない議事録。これらはすべて、情報幾何学的な「距離」を無駄に引き伸ばしているコストに過ぎない。演色性がどうとかいう10万円を超えるライトで照らしたところで、そこに書かれている内容が三流の居酒屋の伝票以下の価値しかないのなら、それは文明の敗北である。LEDの寿命が尽きるのが先か、君の神経が焼き切れるのが先か、賭けてもいい。

本来、高度な計算機が導き出す合意形成の最短経路は、感情という不確定な変数を除去した冷徹な勾配降下法によって示される。それは、人間が数ヶ月かけて議論し、根回しし、忖度した内容を、ミリ秒単位の計算で「これが最もエントロピーが低い解である」と叩き出す作業だ。そこに「熱意」や「思いやり」といった神経伝達物質の揺らぎが入り込む余地はない。

だが、人間はこの測地線を嫌う。彼らは、苦労して、傷ついて、遠回りして辿り着いた答えにしか価値を感じないという、救いようのない「努力教」の熱狂的な信者だからだ。スマホのバッテリーが、使うたびに少しずつ、だが確実に劣化していくように、組織の寿命もまた、こうした無意味な充放電の繰り返しによって確実に削られていく。残るのは、劣化したリチウムの塊のような、使い物にならない老兵たちの群れだけだ。

崩壊

究極的に言えば、組織知とは「平均化された凡庸さ」の別名である。多様体上の点が一つに集束しようとする際、個々の突出した知性は「外れ値」として無慈悲に切り捨てられ、残るのは全会一致という名の、灰色の平坦な、何も生み出さない死の空間だ。

情報幾何学が教える真理は、あまりに残酷である。モデルの複雑さを上げれば上げるほど、つまり多様な意見を取り入れれば取り入れるほど、過学習が起き、組織は未知の状況(アウト・オブ・サンプル)に対して無力になる。いわゆる「船頭多くして船山に登る」状態は、数理的には「次元の呪い」として完璧に説明がつくのだ。

計算機が導く最短経路とは、結局のところ、人間を意思決定のループから排除することに行き着く。計算資源を最適化し、感情という名のエネルギー損失をゼロにする。その先に待っているのは、誰も傷つかず、誰も熱狂せず、ただただ「正しい」だけの、凍てついた最適解の平原だ。そんな場所で、我々のような不完全な炭素生命体は何をすればいい?

おそらく、我々に残された道は一つしかない。会議室の隅で、異常なまでに滑らかで、手に馴染みすぎて逆に不快ですらある数万円の高級な革の手帳を開き、そこに何の生産性もない、ただの呪詛のような落書きを書き殴りながら、この文明が情報の自重で崩壊していくのを眺めることだ。革のエイジングを楽しむ余裕があるふりをしながら、自分自身がエイジングという名の劣化プロセスにあることを誤魔化すのだ。

測地線なんてクソ食らえだ。私は、この歪んだ、摩擦だらけの、救いようのない多様体の上で、せいぜいバッテリーが切れて動かなくなるまで、無駄な熱を出し続け、周囲を不快にさせることにする。

もういい、帰らせてくれ。外の排気ガス混じりの空気の方が、この停滞した組織の熱気よりは、まだ幾分かマシだろう。

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