駅前の立ち食い蕎麦屋で、ふやけたかき揚げがどろりとした醤油色の汁に沈んでいく様を見ていると、組織というもののグロテスクな正体がよく分かる。我々が「合意形成」と呼び、神棚に祀り上げているものの実態は、このどんぶりの底に溜まった、出所不明の天かすの残骸と大差ない。皆、一様に「共通のビジョン」だの「パーパス」だのという聖杯を追い求めているふりをしているが、その真実は、伸びきった麺を啜りながら「この不味さこそが伝統だ」と互いに言い聞かせる集団催眠に過ぎない。個人の知的生産性だの、クリエイティビティだのといった御託を並べたところで、組織という名の巨大な胃袋に放り込まれれば、すべては均一な排泄物へと変わる。
何が悲しくて、我々はあんなにも「話し合い」に固執するのか。それは単に、一人で決断して責任を取るという、財布の中身が空になる以上の恐怖から逃げたいだけだ。経営企画が吐き出す「ミッション」だの「バリュー」だのという言葉は、飲み会で上司が語る「昔は凄かった」という自慢話と同じ、何の栄養価もない産業廃棄物だ。これを「調整」と呼ぶのは、ドブ川の水を「天然水」と偽って売りつける詐欺師の所業に近い。労働とは、価値の創造などではなく、ただ自分の時間を小銭に換金し、その過程で発生するストレスを他人に押し付け合う、泥臭い情報の押し付け合いに過ぎない。
満腹という名の麻酔
会議室で繰り広げられる議論は、トッピングを山盛りにした二郎系ラーメンの地獄絵図そのものだ。「コンプライアンス」という名の背脂、「顧客視点」という名のニンニク、「持続可能性」という名の野菜……各員が自分の「正義」や「メンツ」をドロドロと盛り付けた結果、丼の中は致死量の塩分と脂質で覆い尽くされ、もはや何を食っているのか誰も分かっていない。スープは白濁し、麺は重みで千切れ、本来の味などとうの昔に消え失せている。
しかし、胃袋だけは無慈悲に膨らむ。その不快な膨満感と、食後に襲いかかる強烈なインスリン・スパイクによる眠気。我々はこの生物学的な「気絶」に近い状態を、「仕事をした」という達成感と取り違えている。会議が終わった後のあのけだるい疲労感は、何かを成し遂げた証などではない。単に、脳が情報の飽和攻撃を受けて処理落ちしているだけだ。何という救いようのない喜劇か。我々は生産しているのではなく、消費しているのだ。それも、最も効率の悪い方法で。
歪んだ利害の地図
かつて誰かが、情報の隔たりを幾何学的な「曲率」で説明しようとしたが、そんな高尚な比喩は現場の悪臭を消すための消臭剤にもならない。我々が向き合っているのは、もっと卑近で、もっと汚らしい「利害の歪み」だ。組織における公共性とは、平たく言えば「いかにして自分の取り分を減らさずに、他人にコストを押し付けるか」というセコい計算の集積である。
専門職の「品質へのこだわり」と営業職の「売上ノルマ」が衝突する時、そこに生じているのは「多様体上の距離」などという美しい数学的概念ではない。あるのは単なる「金の奪い合い」だ。この空間は、借金取りから逃げ回る債務者の足取りのように、醜く歪んでいる。あなたが「論理的に正しい」と信じて進む道は、隣の席の同僚にとっては「自分のボーナスを減らす地雷原」に見えている。この断絶を「共通言語」で埋めようとするのは、満員電車の中で足を踏まれている男に向かって「宇宙の調和について語り合おう」と提案するくらいには、頭の狂った行為だ。相手が求めているのは高尚な議論ではなく、今すぐその足をどけろという、剥き出しの生存本能なのだ。
合意形成という作業は、この歪んだ空間で、互いの財布を覗き合いながら、最もマシな「妥協という名の死」を選ぶプロセスに他ならない。そこにはクリエイティビティの欠片もなく、残るのはただ、数時間を無駄にしたという虚無感と、冷え切ったコーヒーの苦味だけだ。そもそも、我々は無意味な儀式に金をかけすぎている。例えば、朝起きた時に首の骨が折れたような錯覚を覚える安物の枕を使い続け、その疲労を解消するために高額な整体に通うような、マッチポンプの構造が組織の意思決定にも組み込まれている。会議という名の「安物の枕」が我々の精神を日々蝕み、その治療のためにさらなる会議が開かれる。10万円の高級枕を買えばすべてが解決すると信じ込む愚かな消費者と、AIを導入すれば組織が円滑に回ると夢想する経営者は、同じ種類の、絶望から目を背けたがっている家畜だ。
管理された腐敗
AIによる統治だの、ガバナンスだのという議論も、結局は「誰にも責任を取らせない仕組み」をどう構築するかという、責任転嫁の極致に過ぎない。人々はAIに「客観性」を期待するが、その正体は、人間の汚い欲望を大量に学習させた末の、平均的な「嘘」の出力だ。ヘーゲルが提唱した止揚(アウフヘーベン)などという言葉を、こんな泥沼に持ち出すのは、道端の糞に金箔を貼るような真似だ。矛盾する二つの意見が高次へと引き上げられたのではなく、単に個々の悪意がミキサーにかけられ、誰を責めればいいのか分からなくなっただけの「無菌室の地獄」である。
我々は、曖昧な「空気」の中で、互いに小さな嘘をつき合い、適当に頷き合いながら、今日という日をやり過ごすように最適化されている。正確な予測や論理的な正解など、組織にとっては劇薬でしかない。真実が白日の下に晒されれば、ほとんどの会社は存続できなくなるだろう。だからこそ、AIが導き出す「残酷なまでに正しい解」は、しばしば組織を崩壊させる。
組織という泥舟が、完全に平坦で透明になる日は永遠に来ない。もし来るとすれば、それは全構成員が自律的な思考を放棄し、アルゴリズムという飼い主に喉元を差し出した時、すなわち組織が生命体としての機能を失い、「管理された死」を迎えた時だ。それまでは、我々は不快な人間関係の歪みに翻弄されながら、伸びきった蕎麦のような、救いようのない不味い合意を無理やり胃袋に流し込み続けるしかない。もう一杯、熱燗を。この吐き気のするような現実を直視し続けるには、私の神経は、あまりにも「人間」という名の欠陥品に過ぎる。
コメントを残す