労働排熱

前回、我々は「効率化」という名の神殿を築こうとして、結果的に自分たちの居場所を更地にしてしまったと論じた。最適化の果てに待っているのは、何の変化も起きない「死」に等しい静止状態でしかないからだ。今日はその続き、つまり我々が日々「労働」と呼んで崇めている、あの滑稽極まりない排熱儀式について、もう少し物理的に、そして残酷に解体してみようと思う。

散逸

そもそも、組織とは放っておけば腐る。これは比喩ではない。熱力学第二法則が支配するこの宇宙において、閉鎖された系は必然的に最大のエントロピー(乱雑さ)へと向かう。企業の倒産やプロジェクトの瓦解は、経営力不足というよりは、単なる物理法則の貫徹に過ぎない。

我々が「事業」と呼んでいるものは、物理学的に見れば非平衡開放系における「散逸構造」である。イリヤ・プリゴジンが提唱したこの概念は、エネルギーを取り込み、外部に排熱することで、一時的に内部の秩序を維持するシステムを指す。つまり、労働とは、宇宙の無秩序化に抗って「負のエントロピー(ネゲントロピー)」を無理やり組織に流し込む、極めて不自然で高コストな営みなのだ。

サラリーマンが毎朝満員電車に揺られてオフィスに向かうのは、文明を維持するための尊い犠牲などではない。システムが熱平衡(=完全なカオス)に陥るのを遅らせるために、自らの生命エネルギーを「秩序」へと変換する、一種の生体フィルターとしての役割を果たしているに過ぎない。これは、真夏に壊れた冷蔵庫の中で、必死に氷を抱えて中身を冷やそうとしている馬鹿げた努力と同じだ。氷が溶ければ、そこにはただの悪臭漂う液体が残るだけだ。

組織が大きくなればなるほど、内部の調整コスト――つまり「情報の摩擦熱」が増大する。会議のための会議、承認のためのスタンプラリー。これらは全て、系の温度を上げるだけの無駄な散逸だ。立ち食い蕎麦屋のカウンターで、無言で蕎麦を啜り、5分で立ち去る客の鮮やかなエントロピー処理速度を見習うべきだろう。あそこには、巨大企業の役員会議にはない「洗練された熱効率」が存在する。一方で、大企業の会議室では、数千万の役員報酬を得ている連中が、1円の利益も生み出さないフォントの修正に数時間を費やし、無為な熱を大気中に放出している。これはもはや、環境破壊に等しい。

秩序

公共性という言葉も、この文脈で捉え直すと面白い。公共的価値とは、特定の系(企業や個人)が排出したエントロピーを、社会というより大きな系が肩代わりして処理するプロセスのことだ。本来なら事業の過程で生じるはずの「汚れ」や「歪み」を、外部に放流する。

しかし、現代の組織はこの「外部化」に限界を感じ始めている。シュレディンガーが『生命とは何か』で語ったように、生命は負のエントロピーを食べて生きている。組織も同様だ。外部から新鮮な秩序(情報や才能)を摂取できなくなった組織は、自らの内部を食いつぶし始める。これが「社内政治」の正体だ。外部に向けられるべきエネルギーが内側で渦を巻き、共食いを始める。

ここで、情報の分布が偏ることで生じるポテンシャルを想像してほしい。組織における「秩序」とは、誰が何を隠し、誰が何を支配しているかという、情報の不均等な蓄積に他ならない。労働の本質とは、この不均等な「情報の目詰まり」を解消することではなく、むしろ自分に都合の良い「目詰まり」を人工的に作り出すことに集約される。情報がスムーズに流れるなら、中間管理職など不要になるからだ。彼らは、自らの存在意義を確保するために、わざと配管を詰まらせ、汚水をせき止める弁として機能する。

「やりがい」だの「自己実現」だのという甘美な言葉は、この物理的な過酷さを隠蔽するための麻酔に過ぎない。我々が感じている達成感とは、脳内報酬系が神経回路のスパイクとして出力した、一過性の電気信号のバグなのだ。高性能なエンジンが冷却水を必要とするように、人間もまた、自己を欺くための物語(ナラティブ)という冷却材を必要とする。

それにしても、だ。この「秩序」を維持するための道具立てが、最近はあまりに度が過ぎている。ただの予定管理や書類作成のために、狂ったように高価な人間工学に基づいた椅子を買い求める連中がいる。あれこそ、自らの労働が宇宙のゴミに過ぎないという事実から目を逸らすための、絶望的な抵抗の象徴だろう。10時間座り続けても腰が痛くならない魔法の玉座を手に入れたところで、そこで産出されるのが無意味な報告書であることに変わりはない。高機能メッシュの弾力に、自分の人生の無秩序を制御できるという幻想を託す。なんだこれ。滑稽を通り越して、もはやホラーだ。

さらに、公共的価値というお題目を唱えることで、あたかも自分たちが宇宙の調和に寄与しているかのような顔をする連中。彼らは、社会というゴミ捨て場に自分たちの負債を押し付けているに過ぎない。企業のCSR活動など、大規模な不法投棄のカムフラージュに過ぎないのだ。

冷却

我々に残された道は、この散逸構造をいかに「美しく」維持するか、という一点に尽きる。二郎系のラーメンを想像してほしい。あの暴力的なまでのカロリーと脂の塊。あれを摂取するという行為は、内臓という名のバイオリアクターに極大のエントロピーを叩き込むテロ行為に近い。しかし、それを「完食」という一つの秩序に落とし込む過程で、我々は奇妙なカタルシスを覚える。労働も同じだ。カオスを飲み込み、無理やり一つの出力(アウトプット)に変形させる。その摩擦熱で身を焦がすことに、生物学的な快楽がプログラムされている。

だが、忘れてはならない。どんなに洗練されたシステムであっても、熱力学の鉄槌を逃れることはできない。散逸構造は、エネルギーの供給が断たれれば瞬時に崩壊する。そして、エネルギーを供給し続けるためには、常に外部を破壊し続けなければならない。

公共的価値の熱力学的定式化とは、要するに「誰が最後にババを引くか」という計算式に他ならない。我々が今日作り出した小さな秩序は、必ず世界のどこかにそれ以上の無秩序を撒き散らしている。その事実に気づかないふりをして、今日もまた滑らかに時を刻むスプリングドライブの秒針を眺め、規則正しく刻まれる「無意味な時間」に安堵する。その時計の機械的な完璧さが、自分の人生の歪みを埋めてくれると信じて。

時計のゼンマイを巻く指先に伝わる抵抗。それこそが、我々が生きているという唯一の証明であり、同時に、緩やかな死へのカウントダウンである。

腰が痛い。この椅子は10万円もしたというのに、結局のところ、重力からは逃れられないらしい。もう、このくらいでいいだろう。これ以上語ることは、系に余計な熱を与えるだけだ。ビールがぬるくなる前に、この非生産的な散逸を終わらせることにする。

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