歪な多様体

昨日、タスク管理の不可逆性について「時間はエントロピー増大の法則に従って崩壊するだけだから諦めろ」と説いたばかりだが、どうやら世の無能な指導者たちは、その不可逆な時間の残骸をかき集めて「組織」という名の、吐き気を催すような幾何学的歪みを作り出すことに執心しているらしい。私がカウンターで静かにハイボールを飲んでいる横で、またしても「ダイバーシティ」だの「インクルージョン」だのといった呪文が聞こえてくる。

多様性。実によい響きだ。この言葉を口にするだけで、自分が何か高尚な徳を積んだかのような錯覚に陥り、デスクに溜まった未払い請求書や決裁待ちの稟議書の現実から一時的に逃避できる。だが、情報幾何学という冷徹極まりないメスでその腹を切り裂いて解剖すれば、組織とは確率分布の多様体(Manifold)に過ぎない。貴様らがありがたがる「個性」などというものは、その多様体上の一点、あるいは計算誤差レベルで無視されるパラメータの微小変動に置換される程度のゴミだ。

「みんな違ってみんないい」などと、居酒屋の薄まった金麦を啜りながらクダを巻くのは勝手だが、数学的に言えば、それは単にフィッシャー情報計量の行列サイズを肥大化させ、無駄な計算コストを跳ね上げているだけのことだ。トッピングを全部乗せした二郎系ラーメンを完食しようとして、結局、乳化した脂と大量の化学調味料、そしてニンニクの暴力的な刺激に胃壁を破壊され、翌日の貴重な労働時間をトイレという個室で浪費する愚かな学生のようなものだ。多すぎる変数は、システムをただ鈍重にし、消化不良を引き起こす。

馬鹿みたいに。

摩擦

組織が「公共的価値」などという、定義の怪しい新興宗教めいた概念を追い求め始めると、事態はさらに滑稽な悲劇へと加速する。彼らは、個々人のバラバラで勝手気ままなベクトルを無理やり一つの方向へ束ねようとするが、これが「組織の最適化」という名の、静かなる拷問の正体だ。

しかし、非平衡熱力学を持ち出すまでもなく、いかなる情報の変換もエネルギーの散逸を伴う。無能な上司が部下を空調の効かない会議室に閉じ込め、「ビジョンを共有しよう」と熱狂的に唾を飛ばすたび、そこには膨大な熱エネルギーが発生し、肝心な情報はノイズにまみれて劣化していく。これは、型落ちした格安スマホで無理やり最新の高負荷な3Dゲームを回し続け、バッテリーが異常な熱を持ってじわじわと膨張し、最終的に物理的な寿命を迎えるプロセスと何ら変わりない。貴様らの情熱は、単なる端末のオーバーヒートであり、熱暴走の予兆に過ぎないのだ。

かつての均一な労働力、いわば具も薬味もない素っ気ない「かけ蕎麦」のような組織は、計算効率だけは抜群だった。全員が同じ方向を向き、同じ速度で機械的に歩く。摩擦は最小限で、維持費も安い。個人の顔色など見る必要もなかった。ところが現代の「多様な組織」はどうだ。かけ蕎麦にパクチーを山盛りにし、背脂をぶっかけ、さらにヴィーガン対応のソイミートを浮かべ、ハラール認証まで同時に求めている。パラメータが増えれば増えるほど、システムは制御不能な非線形振動を始め、維持管理費だけで利益を食い潰す。

その振動を抑えるために、彼らは「心理的安全」という名の、これまた高価で胡散臭い潤滑油を注ぎ込もうとする。その油代で会社が傾いていることにも気づかず、銀行口座の残高が減っていく音を「成長痛」だと勘違いしている。

曲率

情報幾何学において、確率モデルの複雑さは空間の曲率として現れる。組織の多様性が増すということは、この空間の曲がり具合が急峻になり、平坦な道だと思って歩くだけで足首を挫くような崖が増えることを意味する。リーダーシップとは、この歪みきったリーマン多様体上で最短経路(測地線)を見つける高度な幾何学的作業だというが、笑わせる。

現実のリーダーたちがやっていることと言えば、せいぜいシステム手帳という名の、死んだ牛の皮をなめしただけの紙束の入れ物を買い込み、そこに「自分だけの哲学」だの「今年の目標」だのという恥ずかしい落書きを書き連ねることくらいだ。ただの動物の死骸加工品である皮の袋に何万もの通貨を投じる神経が私には理解できない。その厚い革の重厚な感触と、リングの冷たい金属音が、複雑すぎて処理しきれない現実をシンプルに繋ぎ止めてくれるとでも盲信しているのだろうか。

多様体上の点は、個人の主観などお構いなしに、計量という冷たい物理法則に従って移動する。どれほど美しいエイジング処理された革製品に目標を書き込んだところで、組織のエントロピー増大は止まらないし、部下の心が離れていく速度も変わらない。計量変動を解析すれば、そこにあるのは「共感」という名の幻想ではなく、単なる座標のズレ、あるいは安物の公衆Wi-Fiのような通信の遅延(レイテンシ)だ。隣の席の同僚が何を考えているか分からないのは、心が通っていないからではなく、単にパケットが損失しているだけだ。情報の到達確認(ACK)さえ返ってこない。

なんだこれ。

散逸

結局のところ、公共性だの多様性だのという議論は、我々が「生物学的なバグ」を抱えていることを隠蔽するための壮大な物語に過ぎない。我々の脳は、本来意味のないホワイトノイズに無理やり物語を見出し、それを「価値」と呼んで自分を納得させるようにプログラムされている。神経科学的に言えば、それはドーパミン報酬系を効率よくハックし、過酷で無意味な労働環境で発狂せずに生き延びるための、浅知恵に満ちた適応戦略だ。

組織的知性が極限まで最適化された果てに待っているのは、個人の完全なる消失だ。情報幾何学的な極致において、個々のパラメータは全体を記述するための単なる「微小変化(dx)」へと還元される。そこに「私」や「あなた」という甘っちょろい感傷が入る余地はない。数式の中に人格など存在しないのだ。

毎朝、満員電車に揺られ、隣の男の加齢臭と湿った体温を感じながら、背中に押し付けられる誰かの鞄の金具の痛みを堪える。その不快感と物理的な圧迫を「社会参加」という言葉でコーティングし、必死に飲み込もうとする。その倒錯したマゾヒスティックな精神構造こそが、現代の公共性を支えている唯一の柱だ。我々は摩擦熱でかろうじて凍死を免れながら、冷徹な数理的構造の中を、出口もなく彷徨い続けるだけの家畜に過ぎない。

もう、帰らせてくれ。

さて、この歪みきった多様体の端っこで、次は「自己実現」という名の、さらに質の悪い、反吐が出るような幻想について解体してみるとしようか。もっとも、貴様らにそれを受け入れるだけの強靭な胃袋と、まだ機能している脳味噌が残っていればの話だが。

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