昨晩、久しぶりに教え子から連絡があり、場末の焼き鳥屋でしっぽりと飲んできた。彼は今、中堅企業の課長職にあるという。開口一番、「部下が動かない」「組織がバラバラでコントロールが効かない」と、判で押したような愚痴をこぼし始めた。ジョッキについた水滴を指でなぞりながら、彼はまるで世界の終わりのような顔をしている。
私は串から外したレバーを口に運びながら、「それは君の統率力の問題じゃない。単に熱力学が正しいだけだよ」と言い放った。彼は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたが、事実なのだから仕方がない。そもそも、組織なんてものは、放っておけば崩壊するように設計されている。それが宇宙の理であり、逃れようのない呪いだ。
散逸
物理学の世界には「エントロピー増大の法則」という、冷徹かつ絶対的なルールが存在する。閉じた系において、物事は必ず「秩序」から「無秩序」へと向かう。整理された部屋が散らかるのも、熱いコーヒーがぬるくなるのも、すべてはこの法則の支配下にある。企業組織というシステムも例外ではない。
君たちが毎日のように開催している定例会議を思い浮かべてみるといい。あれは情報の共有などではない。熱力学的な「散逸」の現場そのものだ。
例えるなら、それは「二郎系ラーメン」の食い残しに似ている。作りたての瞬間だけは、熱量とニンニクの刺激(=モチベーションや新規事業のアイデア)が丼の中で渦巻いている。しかし、会議が始まり、議論が空転し、時間が経過するにつれてどうなるか。スープの表面には真っ白な脂が浮き、冷えて固まり始める。麺はスープを吸ってブヨブヨに伸びきり、もはや箸で持ち上げることすらできない。
あの会議室に漂っているのは、この「冷えて固まった豚の脂」のような、どうしようもない徒労感の悪臭だ。誰も責任を取ろうとしない発言、結論の先送り、形骸化した進捗報告。これらはすべて、システム内部で発生した摩擦熱が、何の生産的な仕事にも変換されずに無駄な熱エネルギーとして環境中に散逸している状態に他ならない。
これを「社員の当事者意識が足りない」だの「チームワークの欠如」だのと精神論で解釈しようとするから、話がおかしくなる。伸びきった麺を後から箸で整えようとするようなものだ。化学的な劣化(不可逆変化)に対し、精神論で挑むことほど滑稽なことはない。
実際、企業はこの「無秩序への崩壊」を食い止めるために、莫大なコストをドブに捨てている。オフィスを見渡せばいい。例えば、腰痛という肉体的なエントロピーの増大を少しでも遅らせようと、多くの社畜がすがるアーロンチェア。その張り詰めたメッシュ地は、座る者の重みと、組織の重力に耐えかねてじわじわと沈み込んでいく。中古の軽自動車が買えるほどの金額を投じて得られるのは、せいぜい「絶望的な状況でも快適に座っていられる」という、悲しい延命措置に過ぎない。どれだけ高機能な椅子に深く腰掛けようとも、その上で営まれている脳内の活動が散逸していれば、それは人間を収納するための高価なカゴでしかないのだ。
演算
さらに絶望的な事実を突きつけよう。そもそも人間というハードウェアは、高度に複雑化した現代の組織運営には不向きなのだ。
我々は自分の脳を「高度な知性を持った器官」だと勘違いしているが、実態はたかだか1.5キログラム程度のタンパク質と水分の塊に過ぎない。機能としては、ボタンの反応が悪くなった100円ショップの電卓と同レベルだ。「1+1」を押したつもりなのに、接触不良で「11」と表示されたり、液晶が滲んで数字が読めなかったりする。人間における「感情」や「直感」とは、この接触不良による計算エラーを、さも意味ありげに解釈したバグ報告に過ぎない。
「部長の言い方が気に入らないから協力しない」?
「なんとなくこの企画は当たらない気がする」?
笑わせるな。それは君の脳の処理能力が追いつかず、複雑な変数を計算しきれなくなった結果、「不快」という簡易な信号を出力して思考停止しているだけだ。行列の待ち時間すら正確に予測できない欠陥だらけの演算装置が、数千人規模の組織の動態や、変動する市場の曲率を計算できるはずがない。
これからの時代、組織運営から「人間」という不確定要素は排除されていく。冷徹なシリコンのロジックと、確率的な推論回路が、かつて人間が汗をかきながら行っていた意思決定を代替する。彼らは疲れないし、二日酔いで判断を誤ることもない。昼休みにコンビニ弁当の上げ底に腹を立てて、午後の生産性を落とすような無駄な熱(エントロピー)も生成しない。
これは、ステーキの焼き加減を職人の「勘」ではなく、芯温計と正確なタイマーで管理するようなものだ。情緒を削ぎ落とし、血の通わない数値の羅列によってのみ、再現性のある「最適解」は導き出される。そこには、君が誇りに思っていた「現場の絆」も「阿吽の呼吸」も入り込む余地はない。
組織の自動化が進むにつれ、人間が担う「仕事」の定義は変質する。いや、消滅すると言ってもいい。デジタル化された情報の奔流の中で、我々は未だにアナログな儀式にしがみついている。例えば、契約書にサインをするためだけに存在する、ずっしりと重いチタン製の高級万年筆。インクという液体を、毛細管現象という物理法則で紙に染み込ませる。なんと非効率で、なんと前時代的な行為だろうか。その無駄に重厚な金属の筒は、もはや意味をなさなくなった「個人の意思」を証明するための、悲しき墓標のように私には見える。
平衡
最終的に、組織は人間を必要としなくなる。システムは自動化された動的平衡状態へと移行し、人間はただそのプロセスを眺めるだけの「観測者」へと成り下がる。
モニターの上を流れるデータの滝を、ただ呆然と見つめるだけの存在。そこには苦役もなければ、達成感もない。あるのは、自分がシステムの一部ですらなくなったという、絶対的な疎外感だけだ。
焼き鳥屋を出ると、夜風が生暖かかった。教え子はまだ何か言いたげだったが、私はタクシーを拾って早々にその場を離れた。彼にこれ以上何を言っても、それはエントロピーを増大させるだけのノイズにしかならない。
明日の朝もまた、私のメールボックスには、処理されることを拒む無数の「ゴミ」が溜まっているだろう。
帰りたい。
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