曲率の檻

「社会貢献」だの「公共の利益」だのという言葉を、口の周りにケチャップをつけたガキのような顔で語る若手起業家を見るたびに、私は手元の温くなったハイボールを飲み干したくなる衝動に駆られる。前回の講義で、労働における効率化がいかに人間を摩耗させ、魂をすり減らすかを説いたが、君たちはせいぜい「大変だなぁ」とスマホの画面を眺めていただろう。だが、その延長線上にある「公共性」という概念もまた、君たちが昨日食べた安物のコンビニ弁当の底に白く凝固した脂のような、救いようのない欺瞞に満ちている。

君たちは、自分が誰かのために働いていると本気で信じているのかね。笑わせないでほしい。我々が「公共」と呼んでいるものは、実のところ統計学的なパラメータ空間における、単なる確率分布の「重なり」に過ぎないのだ。それは、行列の長いラーメン屋で前の男が「麺硬め」と注文したせいで、自分のロットの茹で加減が微妙に狂う、あの不快な連鎖と同じだ。

期待値という名の飢餓

そもそも、組織や事業が標榜する「公共性」という美辞麗句を解体してみれば、そこにあるのは熱力学的なエントロピー増大への、無駄な抵抗でしかない。人間が「誠意を持って議論しましょう」などと言うとき、その脳内では神経細胞がデタラメな信号を飛ばし合い、情報の欠落を「情緒」という名のバグで埋めているだけだ。「みんなの意見を聞く」などというプロセスは、システムの温度を上げ、乱雑さを加速させるだけの燃料投下に他ならない。

これは、立ち食いのかけ蕎麦を啜っている時に、「この出汁には店主の魂がこもっている」と感動するのと同義だ。実際には、決められた塩分濃度とグルタミン酸の配合、そしてコスト計算に基づいた最適解がボウルの中に再現されているに過ぎない。魂などという不確定要素を混入させれば、経営は破綻する。公共事業の意思決定プロセスも同様だ。多くの人間が会議室に集まり、プロジェクターの排気熱に脳を焼かれながら「全体の利益」について語る。だが、彼らがやっているのは最適化計算ではなく、単なる「情報のすり合わせ」という名のノイズの増幅だ。

この無意味な調整に、どれほどの金と時間が溶けているか考えたことがあるか? 1時間5万円もする高級なアーロンチェアに座り、腰の痛みを誤魔化しながら、結局は誰も責任を取らない「中庸」という名のゴミを生成し続ける。その椅子の保証期間が切れる頃には、君たちの出した結論など、カラスに突かれた生ゴミほどの価値もなくなっているだろう。腰が痛い。本当に、ただ座っているだけで寿命が削がれていく感覚がする。

曲率の地獄

ここで少し、君たちが大好きな「知的な言葉」を一つ貸してやろう。情報幾何学における「フィッシャー情報行列」だ。我々が社会における意思決定を行う際、そこには「統計的多様体」という概念的な空間が広がっている。公共性とは、その多様体上の特定の点を指し示すパラメータの集合だ。

ここで重要になるのがフィッシャー情報行列であり、それが規定する「曲率」だ。この行列は、あるパラメータがどれだけ正確に推定できるか、つまり情報の感度を測定する尺度となる。公共の利益を定義しようとする際、この行列が示す曲率が極端に高い場所、つまり「急峻な崖」のような領域に我々は立たされる。少し足を踏み外せば、奈落の底だ。

二郎系のラーメン屋で「ヤサイマシアブラカラメ」を呪文のように唱える若者を想像したまえ。彼は自分にとっての最適解(パラメータ)を選択しているつもりだが、その背後には店側のオペレーション、原価率、そして後に続く客の待ち時間という膨大な情報空間が横たわっている。彼が不用意に「マシマシ」を選択することで、店内のエントロピーは急上昇し、公共の秩序(回転率)は崩壊する。この、個人の欲望が全体のシステムを汚染し、情報幾何学的な曲率を歪めていく過程こそが、民主主義的な合意形成の正体だ。

AIガバナンスの問題も、これと同じだ。AIに「公共の利益を最大化せよ」と命じるのは、多様体の曲率が無限大になる特異点を探せと言っているのに等しい。決定におけるわずかな誤差が、結果に対して壊滅的な影響を及ぼす。我々が「倫理」と呼んでいるものは、この数理的な不安定さを回避するための、極めて原始的な防衛本能に過ぎない。ガバナンス、すなわち「管理」の問題は、この歪んだ空間をいかに平坦に偽装するかという詐欺技術に他ならない。

自動化された意思決定システムに「公共の倫理」を学習させることは、最新のノイズキャンセリングヘッドフォンを耳に押し当てて、線路に飛び込む人間の悲鳴を遮断する行為と同じだ。都合の悪い情報は「ノイズ」として処理され、統計的な「正しさ」だけが抽出される。その結果として残るのは、誰の心も動かさない、無菌状態で味のしない、冷え切ったレトルト食品のような社会だ。

数理的諦念

結局のところ、意思決定の最適化とは、フィッシャー情報行列が導き出す「情報の風景」をいかに平坦に馴らすかという作業に帰結する。AIによるガバナンスが目指すのは、人間が抱く「納得感」という主観的なクオリアを、数理的な滑らかさに置き換えることだ。

しかし、そこに救いはない。情報幾何学的に最適化された社会とは、個人の意志が確率分布の裾野に吸収され、個性が統計的な誤差として処理される世界だ。それは、すべての人間が同じタイミングで無駄に高精度のスマートウォッチの通知に従い、同じ深さの呼吸をするような、窒息しそうなほど正しい空間である。心拍数の上昇を検知して「リラックスしましょう」などと機械に言われるたびに、私は自分の脈を止めてやりたくなる。

我々が「自由」だと感じているのは、単に自分たちの位置する多様体の曲率が低く、情報の感度が鈍い場所で、適当な意思決定を許されているという幸運に過ぎない。ガバナンスが高度化すればするほど、我々の選択肢はフィッシャー情報の最小値へと収束していく。給料日前の通帳残高を見た時の、あの血の気が引くような現実感だけが、かろうじて私たちが生きていることを証明するアンカーだ。

それにしても、世の中には高級なブランドの万年筆に、平均的な会社員の月収の半分を支払う人間がいるらしい。インクが出るだけの棒切れにそれだけの価値を見出す、その歪んだ価値判断こそが、人間というシステムの最大のバグであり、同時に公共性を成立させている「愛すべき愚かさ」の正体だろう。なんだこれ。馬鹿馬鹿しい。

公共性という言葉に酔いしれるのは勝手だが、その裏側にあるのは冷徹な数理モデルと、不可逆な物理法則だ。会議室で熱弁を振るう紳士も、二郎系で脂を啜る若者も、満員電車で隣の男の加齢臭に耐える私も、等しく情報の海に漂うパラメータの断片に過ぎない。

もう、この辺りでよかろう。これ以上言葉を重ねたところで、多様体の曲率が変わるわけでも、私の膝の痛みが消えるわけでもない。公共性という名の幻想を抱えたまま、君たちはせいぜい、次の「最適解」という名の妥協点を探して、泥水を啜り続けるがいい。私は、この冷めきった、油の浮いたスープを飲み干して、確率論的な夜に消えることにする。

帰らせてくれ。

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