前回の講義——あれは安酒で脳の前頭葉が麻痺した中での戯言だったかもしれないが——では、我々がいかに「効率」という名の幻影に鞭打たれ、ラットマシンの上で虚ろな目をしているかを論じた。だが、そのラットマシン自体が、実は宇宙の根本法則に従って我々の生命力を搾り取っているのだとしたら、少しは救われるだろうか。いや、余計に絶望するか。どちらでもいい。どうせ結末は変わらない。
手元のビールが、冷えたグラスの表面に結露を作り出し、それが重力に負けて滴り落ちる様を眺めていると、組織という存在がいかに「二郎系ラーメン」に似ているかという事実に突き当たる。常に強力な火をかけ続け、脂と豚——つまり、君たちのような代替可能な労働力だ——を絶え間なく投入し続けなければ、そのシステムは一瞬で分離し、ただの白濁した汚水へと成り下がる。持続可能? 笑わせるな。あれは崩壊を先延ばしにするための、カロリーの無駄遣いだ。
散逸
経営学者が得意げに「サステナブルな組織」などと宣うとき、私はいつも苦笑を禁じ得ない。物理学、特にイリヤ・プリゴジンの散逸構造論という冷徹なレンズを通せば、組織とは外部から絶えず「負のエントロピー」を摂取し、内部で生じた無秩序を排泄物として外部に垂れ流すことで、辛うじてその形態を維持している定常状態に過ぎない。
具体的に言おうか。組織が摂取しているのは、君たちが週末の泥のような睡眠で必死にかき集めた僅かな気力と、税金と社会保険料で削り取られた後の乏しい賃金に換算される時間だ。そして組織は何を排出している? 「成果物」という名のガラクタか? いや、もっと本質的なのは「エントロピー」そのものだ。
朝の満員電車で吐き出される、安っぽい缶コーヒーと胃酸が混じり合った不快なため息。あれは単なる二酸化炭素の排出ではない。組織という巨大な散逸構造を維持するために、個々の細胞——つまり、他人の肘に肋骨を圧迫されながら揺られる君たちのことだ——が内部で生成してしまった熱力学的な「汚れ」の排気現象なのだよ。都市の朝のラッシュアワーは、巨大な工場の排気ダクトとなんら変わらない。我々は、経済活動という熱機関を動かすために、自らの精神を燃料としてくべ、煤(すす)となって吐き出されているに過ぎない。
定例会議という名の儀式も興味深い。あれは情報の同期を目的としているようでいて、実態は系の温度を上げるための無意味な摩擦運動だ。中身のない発言が繰り返されるたび、密閉された会議室の二酸化炭素濃度は上昇し、室温は微増し、参加者のニューロンはコルチゾールの海で溺れながら無意味に発火する。この摩擦熱こそが、組織が「生きている」という錯覚を維持するために支払わなければならない、あまりにも高価なコストなのだ。馬鹿みたいに。
耗損
我々が「キャリア」や「やりがい」、あるいは「自己実現」などと呼んでありがたがっているものは、神経科学の冷徹な視点から見れば、前頭前野におけるドーパミンの報酬予測誤差に過ぎない。系が崩壊しないよう、脳という中古のハードウェアが自らにかけた一種の麻酔だ。痛みを誤魔化して走らせるための、生物学的なバグだ。
労働とは本質的に、生体バッテリーの不可逆的な劣化プロセスである。君たちは100円ショップで売られている、3個セットの安物のスポンジを使ったことがあるか? 新品の時は鮮やかな黄色で、弾力もあり、どんな汚れも落とせそうな希望に満ちている。だが、カレーの鍋を洗い、換気扇の油汚れを擦り、排水溝のぬめりを拭き取っていくうちに、それは見るも無残な姿へと変貌する。角は削げ落ち、弾力を失って硬化し、繊維の奥深くまで茶渋とカビが入り込み、どんなに洗剤をつけても泡立たなくなる。
君たちの魂は、そのスポンジだ。月曜日から金曜日まで、理不尽なクライアントのクレームという油汚れや、上司のパワハラという焦げ付きを擦り落とすたびに、精神の繊維は確実に摩耗し、薄汚れていく。週末の泥眠は「回復」ではない。それは単なる、化学平衡——つまり死だ——へ向かう速度を一時的に緩めているだけの、悪足掻きに過ぎない。月曜の朝、鏡に映る君の顔色は、使い古されたスポンジのあの薄汚れた灰色と同じではないか?
最近は、このエントロピー増大という名の絶望を少しでも遅らせようと、血眼になって環境を整える手合いが多い。涙ぐましい努力だ。例えば、隣の席で鼻息を荒くする無能な同僚が叩き出す、あの大袈裟なエンターキーの打鍵音。あの神経を逆撫でするノイズを、物理的に宇宙の果てまで追放するために、静寂を金で買うための耳栓に10万円近くを投じたりする。音楽を聴くためじゃない、世界を遮断するためだ。
あるいは、深夜までブルーライトを発するモニターを睨み続け、充血し、痙攣する眼球を休めるために、網膜に入る光子一粒一粒を拒絶するかのような視覚を封印するシルクの拘束具で顔面を覆い隠す。かつては目を閉じれば手に入ったはずの「闇」さえ、今や高級品だ。
重力という暴力的な物理法則から逃れるために、数ヶ月分の給料を注ぎ込んだメッシュの檻に身を預け、脊椎のS字カーブが砕け散るのを必死で防ごうとする行為も同断だ。これらは前向きな投資などではない。マイナスになったパラメーターを、ゼロに戻すために支払われる「維持費」だ。生きるためのコストが、生きる喜びを上回っている。それはもはや家具ではなく、物理法則に対する敗北宣言の記念碑である。
零点
ここに、感情を持たない高効率な計算エンジンが組み込まれると、事態はさらに不毛な、形而上学的な領域へと滑り込む。計算機には「疲労」という概念がない。エントロピーの増大に苦しむ肉体がない。彼らはただ、入力を出力へと変換する純粋な写像として存在する。
そうなった時、組織における「人間」の役割は劇的に変化する。情報の不確実性を処理する知的な主体から、単なる「最終的な責任の引き受け先」へとシフトしていくのだ。高度な計算が導き出した最適解に対し、人間が震える手で判子を押す。この行為にはもはや知的なエネルギーの介在する余地はない。あるのは、万が一系がエラーを起こした際に、その全エントロピーを一身に浴びて「更迭」されるための、肉体を持った生贄(スケープゴート)としての機能だけだ。
計算が神となり、人間はその計算結果を現世に定着させるための「劣化した物理インターフェース」に成り下がる。情報の純度は高まるだろう。効率は極限まで達するだろう。だが、そこには「意味」という名のゆらぎは存在しない。熱死した宇宙のように、完璧で、静寂で、死に絶えた組織の完成だ。
もはや、そこには「やる気」だの「社風」だのといった曖昧なバグが入り込む隙間はない。あるのは、最適化された数式が刻む、冷徹なクロック数だけである。
……帰りたい。このコップの中の液体も、私の体温によってすっかり温くなってしまった。この泡の消滅速度の方が、君たちのキャリア形成よりもよほどマシな数学的美しさを備えている。
明日、君がオフィスの重い扉を開けるとき、それを「仕事」だと思わないことだ。君はただ、宇宙全体の無秩序を加速させるために、自らの生命エネルギーを摩耗しに行く、哀れで高貴な熱交換器なのだから。その代償に得た紙切れで、また別の低エントロピー商品を買い漁るがいい。その循環こそが、文明という名の、あまりに壮大な徒労なのだから。
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