労働の曲率

前回は、効率化という名の「時間の切り売り」がいかに我々の精神を薄いハムのようにスライスしてきたかについて、少しばかり酔った勢いで語りすぎてしまったようだ。失礼した。しかし、グラスの底に残った氷が溶けきる前に、話の続きをせねばならない。

最近の経営会議や、そこかしこで開かれる「働き方改革」とやらを聞いていると、どうにも胃の幽門あたりが不快に痙攣する。誰もが「多様性」だの「リスキリング」だのと、耳障りの良いカタカナ語を呪文のように唱えているからだ。彼らは、その呪文さえ唱えれば、まるで二郎系ラーメンの食券を握りしめて「ヤサイニンニクマシマシ」と叫ぶだけで、望んだ成果が勝手に目の前に現れると本気で信じているらしい。

だが、現実の「労働」という営みは、そんなに都合の良いオーダーメイドではない。それは数学的に言えば、確率分布の泥沼、すなわち「情報幾何学的な多様体」の上を、必死に這い回る行為に他ならないのだ。

組織という名の泥舟

我々が普段「組織」と呼んでいるものは、実のところ、個々の労働者が持つ不確実でノイズだらけのスキルの集合体に過ぎない。これを計量経済学的に眺めれば、生産関数という名の、あまりに粗末な近似式で語られることが多いが、その内実はもっとグロテスクで、生々しい。

かつて、我々は「働くこと」を、汗をかいて重い石を運ぶような、単純な重力への反抗だと信じていた。あるいは、巨大な機械のネジを回すような、ニュートン力学的な対話だと。だが現実はどうだ。現代の労働とは、油ぎったフライパンの上で、こびり付いた卵の殻を剥がすような不快な作業の連続ではないか。

君たちが「部下の成長」を見て目を細める時、実際には脳内で何が起きているか、情報幾何学の視点で考えたことはあるかね? それは、その部下の脳内にある統計モデルが、業務という理不尽な入力データに対して、フィッシャー情報行列を更新し、出力の分散を最小化しているだけだ。要するに、予測誤差を減らすためのコスト計算の結果、組織という巨大な胃袋に消化されやすい形へと、自らのニューロンを摩耗させたに過ぎない。

感動的だろう? 誰かが必死に新しいSaaSの使い方を覚えようとしている姿は、物理学的に見れば、エントロピーの増大に抗って神経系の自由エネルギーを浪費している「バグの修正」であり、使い古して液漏れした乾電池を、無理やりリモコンに押し込んで動かしているような、救いようのない「最適化」なのだ。

なんだこれ。

確率の泥沼と、静寂の安売り

ここで少し視点を変えよう。甘井(あまい)などという酒場の親父が好むような精神論ではない。統計的なモデルのパラメータが作る空間、すなわち「情報多様体」の話だ。

労働者がスキルを習熟させるプロセスは、この多様体上を測地線に沿って移動する旅だと言われる。しかし、AIの登場がこの空間を決定的に歪めてしまった。AIは、この空間における曲率を極限まで平坦化し、移動コストをゼロに近づけようとする。かつては数十年かかった職人の「勘」や「経験」という名の高次元データへのアクセスが、今やプロンプト一つでショートカットされ、シュレッダーにかけられて等しく灰になる。

その結果、何が起きるか。すべてが最適化され、曲率が失われた空間では、情報の「価値」もまた揮発するのだ。誰でも同じ答えに辿り着ける平坦な世界。そこにあるのは、何の変哲もない、どこにでもある「平坦な退屈」だ。それは、深夜の休憩室で、AIに職を奪われる恐怖に怯えながら、廃棄寸前のコンビニ弁当を食わされるような、粘着質な屈辱の味がする。

最近、このどうしようもない情報の濁流から逃れるために、数万円もするノイズキャンセリングヘッドホンを耳に突き立てて、外界を遮断して作業に没頭する若者をよく見かける。彼らは静寂という名の真空を数万円で買い、多様体上での遭難を拒絶し、自分だけの狭い特異点に閉じこもっているのだ。AIが生成したノイズだらけの回答を、自分自身の思考だと錯覚するためには、それくらいの防壁が必要なのだろう。あの強気な価格設定には、正直、神の不在を感じざるを得ない。

馬鹿みたいに。

非ユークリッドな公共性

さて、最後は「公共的価値」についてだ。これは、単なる社会貢献などという生ぬるい話ではない。

組織がAIと共生し、効率の極致に達した時、その組織の「形」は非ユークリッド的な歪みを生じる。特定の「利益」という方向には無限に伸びるが、他者への共感や倫理といった方向には、光さえ脱出できないほどの強い重力がかかり、空間ごと押しつぶしていく。

公共性とは、この情報多様体における「曲率」そのものである。自分たちの利益とは無関係な方向に、どれだけ空間を曲げ、無駄な余白を残せるか。だが、現在の計量経済的な評価軸には、この曲率を測る定規がない。結果として、組織はひたすら平坦な、つまりは「面白みのない、ただ効率的なだけの死んだ空間」へと収束していく。

我々が「やりがい」と呼んでいるものは、その切り捨てられた余白から立ち昇る、死臭のようなものだ。あるいは、満員電車の床に落ちて誰にも拾われず、踏まれ続けて黒ずんだ一円玉のようなものと言ってもいい。

一歩外に出れば、そこには数年分のボーナスを溶かすような高機能チェアに縛り付けられ、腰痛と戦いながら、AIが吐き出したゴミを人間語に翻訳するだけの、無意味な「作業」が待っている。この地獄を「習熟」と呼ぶのなら、人間はとっくに絶滅しているべきだった。

公園のベンチで、死んだ魚のような目をして缶コーヒーを啜るおっさんを見てみろ。彼こそが、AI共生型組織から排出された、最も純粋な「公共性の残滓」だ。我々は、測地線に沿って優雅に歩いているのではない。ただ、雨上がりの滑りやすい泥坂を、必死に爪を立てて滑り落ちているだけなのだ。

帰りたい。

結局のところ、AI共生型組織におけるスキル習熟とは、人間が人間であることを辞め、情報の海に溶け込んでいくための緩やかな自殺のようなものだ。かつての労働者が汗を流して土を耕したように、現代の労働者はシリコンのチップの上で、自分の認知資源を切り売りしている。

そこに「価値」があるのか、あるいは単なる「確率の揺らぎ」に過ぎないのか。居酒屋の隅で、冷めた焼き鳥を突きながら考えるには、少しばかり情報の計量に失敗したようだ。

グラスが空だ。次の酒を持ってきてくれ。もちろん、多様体上の最適解などではなく、ただただアルコールの純度が高い、最も暴力的なやつを。

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