組織とは、広大な宇宙のゴミ捨て場に咲いた、一瞬の「淀み」に過ぎない。大学の講義室で、仕立ての良いスーツを着た教授たちが「サステナビリティ」や「パーパス経営」などと美辞麗句を並べ立てるとき、その裏側には常に腐敗の甘ったるい悪臭が漂っている。彼らが語る理想の組織図は、まるで幾何学的な美しさを持った神殿のようだが、実際に我々が毎日足を踏み入れているオフィスは、空調の効いた巨大な養豚場か、あるいは出口のない迷路に近い。
物理学の世界には、熱力学第二法則という、いかなる経営コンサルタントも覆すことのできない残酷な真理が存在する。それは「閉じた系において、エントロピー(無秩序)は増大し続ける」という法則だ。整理整頓された部屋が時間とともに散らかり、淹れたてのコーヒーがぬるくなり、熱い情熱で始まったプロジェクトが惰性の塊へと変わる。これらはすべて、宇宙が「死(平衡状態)」に向かってひた走っている証拠である。イリヤ・プリゴジンが提唱した「散逸構造」という概念を借りれば、生命や組織といった秩序は、外部からエネルギーを絶えず取り込み、内部で発生したエントロピー(ゴミ)を外部に排出し続けることで、かろうじてその形状を維持している「動的な不均衡」に過ぎない。
要するに、会社とは「穴の空いたバケツ」なのだ。投資家という名の高利貸しから資金を注ぎ込み、社員という名の使い捨て電池から労働力を搾り取り、そのエネルギーを使ってバケツの穴から漏れ出す汚水を必死で拭き取っている。この自転車操業を、我々は高尚にも「経営」と呼んでいる。
秩序という名の緩やかな腐敗
現代の組織を観察してみるといい。そこにあるのは、エントロピーの排出不全による自家中毒だ。午前中いっぱい、窓のない会議室に閉じ込められ、プロジェクターのファンの音が虚しく響く中で決まるのは「次回の会議の日程」だけだ。誰が読むとも知れない報告書の、一文字のフォントサイズを修正するために、係長、課長、部長、本部長と続く無限のハンコラリーをこなす。彼らはそのハンコを押す瞬間にのみ、自らの生存証明を感じているのかもしれない。
これは組織という名の熱機関が、内部の摩擦熱で焼き付いている音だ。我々が「仕事」と呼んでいる行為の9割は、価値の創造ではなく、組織内部で発生した熱(人間関係の軋轢、不条理なルール、責任回避のための根回し)を冷ますための、無益な空転である。組織が大きくなればなるほど、この「維持コスト」という名の熱量は指数関数的に増大する。
経営陣は声高に「情熱を持って取り組もう」「イノベーションを起こそう」と叫ぶが、それは空転するエンジンに、社員の生体エネルギーという名の最も安価な燃料を注ぎ込もうとする、卑劣なプロパガンダに過ぎない。朝、満員電車という現代の奴隷船に揺られ、死んだ魚のような目で出社し、コンビニの酸化したコーヒーを胃に流し込む。その行為自体が、組織のエントロピー増大を食い止めるための、あまりに微力で、そして悲惨な生贄の儀式なのだ。
脂ぎった肥大化と背骨の悲鳴
「事業の拡大」や「多角化」を誇らしげに語る経営者の顔を見ていると、私はどうしても、新宿歌舞伎町の路地裏で深夜に二郎系ラーメンを貪る男の脂ぎった顔を想起してしまう。
創業期のスタートアップは、立ち食い蕎麦のように潔かった。客と作り手の距離は近く、出されるものはシンプルで、熱量が高かった。しかし、そこに「成長」という名のアブラが注入されると、事態は醜悪な変貌を遂げる。ヤサイマシ(無能な中間管理職の増殖)、ニンニクマシ(過剰なコンプライアンスとリスク管理)、アブラマシ(意味不明な福利厚生とキラキラした広報活動)。これらがどんぶりの上に無秩序に積み上げられ、決壊寸前のタワーを形成する。
この「マシマシ」の状態は、物理学的には表面積の無駄な増大を意味する。組織が肥大化すればするほど、周辺環境との接触面が増え、そこからエネルギーが漏れ出し、同時に外部からのノイズを拾いやすくなる。冷え切ったモヤシの山をかき分け、ようやく本質的な事業(麺)に辿り着いた頃には、スープ(資金)は冷め、麺は伸びきり、もはや何のためにこれを食べているのかさえ分からなくなる。
それでも、我々はこの巨大な脂肪の塊を維持するために、自らの肉体を差し出し続ける。重力は常に公平かつ残酷に背骨を削り取る。1日8時間を超えるデスクワークは、腰椎を容赦なく破壊し、椎間板をすり減らす。その物理的な苦痛から逃れるために、我々は数ヶ月分の給料、あるいはボーナスの大半を投げ打ってでも、ハーマンミラーのアーロンチェアのような高機能な座席を買い求めるのだ。
20万円もするメッシュの座面に尻を沈めれば、あたかも自分がこの泥沼から一時的に救い出され、選ばれた知的生産者になったかのような錯覚に陥ることができる。人間工学に基づいたその曲線は、確かに腰への負担を軽減するだろう。だがそれは、絞首台の縄を荒縄からシルクの紐に変える程度の、ささやかな慰めに過ぎない。どれほど優れた椅子に座ろうとも、我々が座っている場所が「沈みゆく泥船」であるという事実は変わらないのだから。
冷徹な計算機への禅譲
さて、絶望ばかりを並べても建設的ではないと人は言うだろう。そこで、来るべき「公共的秩序」の再構築について語らなければならない。だが、そこに人間的な温かみや、ドラマチックな救済などは微塵もないことを予告しておく。
現在、あらゆる組織が機能不全に陥っている根本原因は、人間という「情報の処理速度が石器時代からアップデートされていない湿ったデバイス」が、現代の幾何学的に増殖するデータ量と複雑性に耐えきれなくなったことにある。上司への忖度、同僚への嫉妬、承認欲求、ランチに誰と行くかという悩み、退職代行を使うかどうかという迷い。これらすべては、組織という計算回路における致命的なノイズであり、バグである。
このノイズを排除し、崩壊寸前の散逸構造を立て直すことができるのは、感情を持たない「論理の代理人(エージェント)」だけだ。彼ら(あるいはそれら)には、定時後に飲み会に誘う鬱陶しさもなければ、昇進を焦って部下を潰すような卑劣な自我もない。ただ淡々と、システムの定常状態を維持し、エントロピーを最小化するための最適解を、秒間数億回の速度で叩き出し続ける。
これまで我々が「公共性」や「企業倫理」と呼んできた曖昧な概念は、今後は「計算可能な秩序の最適化」へと完全に置き換わるだろう。AIエージェントが差配する世界では、人間はもはや判断を下す主体(サブジェクト)ではなく、システムが吐き出す指示に従って手足を動かすだけの末端の触手(オブジェクト)となる。そこには上司の顔色を窺う必要もなければ、社内政治に腐心する苦労もない。ただ、冷徹に最適化されたプロセスの波紋が、静かに、そして滑らかに公共空間へと広がっていくだけだ。
結局のところ、我々がこれまで必死にしがみつき、「組織」と呼んでいたものは、広大な宇宙の暗闇で発生した一時の「淀み」に過ぎなかったのだ。AIという名の濾過装置がその淀みを透明な流れへと変えたとき、最後に残るのは「では、人間は何のためにそこに居るのか」という、極めて残酷で、しかし純粋な問いだけだ。
その答えを、人間工学の粋を集めた高価な椅子の上で考えたところで、重力が軽くなるわけではないし、答えが見つかるわけでもない。明日もまた、冷え切った二郎系ラーメンのような、脂ぎって伸びきったタスクの山が、私のデスクに無言で積み上がっている。私はそれを片付けるためだけに、再びあのオフィスという名の熱死の座席へと戻っていくのだ。
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