組織などというものは、結局のところ、腐りかけた巨大な「寄せ鍋」に過ぎない。君がその、脂の浮いたスープの底に沈んでいる具材の一つであるという自覚があるのなら、少しは話が早くなる。事業の公共性だの、労働主体のエントロピー低減だのと、小綺麗な言葉を並べて自分を正当化するのはやめたまえ。そんなものは、自分がただの「燃料」として燃やされている現実から目を背けるための、薄っぺらな目隠しだ。とりあえず、その伸びきった「二郎系ラーメン」の、もはや小麦粉の塊へと退化した麺を口に運ぶといい。脂と塩分という暴力的な情報の濁流が、君の味覚という秩序を破壊していく。その不快感こそが、組織における「代謝」の正体だ。蛍光灯の白々しい明かりの下で、乾いたコンタクトレンズを張り付かせながらPC画面を睨みつける君の姿は、熱力学的に見れば、ただの哀れなエネルギー変換装置に過ぎない。
泥水の中の代謝
ビジネスの世界では、よく「持続可能性」という名の、カルト宗教にも似た呪文が唱えられる。だが、熱力学の冷徹な法廷において、組織がやっていることは単なる「環境破壊」の変種でしかない。組織とは、外部から低エントロピー――つまり、若者の無垢な情熱や、社会が長い時間をかけて蓄積した信頼、あるいは投資家から毟り取った「血の滲むような金」――を飲み込み、内部でドロドロに溶かし、わずかな利益という名の「残りカス」を捻り出すプロセスだ。このプロセスで排出されるのは、利益だけではない。むしろその大半は、ストレス、不信感、そして「一体自分は何をしているんだ」という、処理しきれない廃熱としての虚無感だ。
イリヤ・プリゴジンが散逸構造を論じたとき、まさかそれが「満員電車で他人の加齢臭を嗅ぎながら、Excelのセルの色を整える作業」を正当化するために使われるとは夢にも思わなかっただろう。労働主体、すなわち君という名の肉塊がやっていることは、組織という巨大なシステムが「熱死」するのを防ぐための、文字通りの生贄だ。会社が潰れないように、君は自分の神経系を削り、秩序という名の「薪」を焚き木にくべ続ける。毎朝のアラーム音と共に君の脳内で分泌されるコルチゾールや、達成感と誤認されるドーパミンは、単なる「オーバーヒートの予兆」に過ぎない。それを「やりがい」と呼ぶのは、オーバーヒートして黒煙を吹いている中古車のエンジンを見て「この車は情熱的に燃えている」と称賛するのと同義だ。
馬鹿みたいに。
秩序という名の搾取コスト
組織におけるエントロピーの低減、すなわち「効率化」や「ガバナンス」といった概念は、実は最もコストのかかる贅沢品だ。物理法則は嘘をつかない。局所的な秩序を1単位生み出すためには、その何十倍ものエネルギーを周囲の環境に散逸させなければならないからだ。君がメールの文面を丁寧に推敲し、完璧な報告書を作り上げようとすればするほど、君の精神的な余裕は失われ、家庭での会話は減り、胃酸の分泌量は増える。秩序はタダではない。それは常に、誰かの生命力を代償にして購われる。
例えば、オフィスの生産性を高めるという名目で導入される、あの忌々しいほど高価な備品たちを見てみろ。集中力を維持し、腰への負担を軽減すると謳う1脚30万円もするワークチェアの代表格を考えてみるがいい。あんなプラスチックとメッシュの骨組みに、君の数ヶ月分の家賃に匹敵するコストを注ぎ込むという行為の、どこに理性がある? それは秩序の追求ではなく、単なる「座り心地の良い死に場所」を買っているだけだ。その椅子に深く座り込み、背骨のS字カーブを人工的に維持された状態で、君はただキーボードを叩き続けるマシーンへと最適化される。あるいは、重厚な役員室のデスクの上に鎮座する、真鍮で鋳造された無駄に重い文鎮はどうだ。ただの金属の塊が、あたかも書類という名の紙屑に「重み」を与えるかのような錯覚。これこそが、資本主義が作り出した最も滑稽なエントロピーの局所的低減だ。モノを所有し、形を整えることで、自分の内側にある決定的な無秩序を抑え込もうとするその姿勢こそが、最も救いがたい混乱の証左である。
なんだこれ。
我々が「マネジメント」と呼んでいる行為の正体も、所詮は組織内に蓄積した「ゴミ」を、誰の目にも触れない場所へ隠す技術に過ぎない。上司が部下に理不尽な命令を下すのは、自分の領域のエントロピーを下げ、そのシワ寄せを他者へ押し付けているだけだ。ゴミを自分の部屋に置いておきたくないから、隣の部屋へ投げ込む。それが洗練された形で行われるとき、我々はそれを「適切なデリゲーション」や「役割分担」と呼ぶ。言葉とは実に見事にできている。君が「エントロピーを下げよう」と必死になればなるほど、君の周囲には摩擦熱が溜まり、人間関係はギスギスし、システム全体としての温度は上がっていく。秩序は、誰かの犠牲の上にしか成立しない。君が手に入れたその「整った資料」の裏には、誰かの睡眠時間と、家庭の崩壊と、コンビニ弁当で満たされた醜い胃袋が隠されているのだ。
虚無の幾何学と、ただの空腹
情報幾何学などという高尚な視点を持ち出すまでもなく、本質はもっと卑近で、哀れなものだ。組織の意思決定とは、確率的なゆらぎの中での「悪あがき」に過ぎない。どこへ向かっているのかも分からず、ただ「動いていること」を証明するために、会議という名の儀式を繰り返す。ホワイトボードに書き殴られたフローチャートや、付箋を使ったブレインストーミングなど、保育園の落書きと大差ない。唯一の違いは、そこに「大人の事情」という名の欺瞞が含まれているかどうかだ。
目的地が不明なまま最短距離(測地線)を走ろうとするその姿は、スマホの画面に付着した指紋の脂を、別の指で広げているようなものだ。拭けば拭くほど視界は濁り、本質は見えなくなる。現代の労働とは、この「濁り」を「美しい模様」であると強弁する、ある種の集団幻覚アートに成り下がっている。事業の公共性だの社会貢献だのという言葉は、我々が日々垂れ流している「膨大な無駄」に対する、後付けの言い訳でしかない。我々は宇宙をより無秩序にする手伝いをする代わりに、深夜のコンビニのレジ横にある、油の回りきったLチキを1つ買う権利を得ているだけだ。
帰りたい。
その一言さえ、組織という散逸構造の中では「不満エントロピーの放出」として処理され、さらなる秩序維持のエネルギーへと変換されてしまう。さて、器の中のスープはすっかり冷め、表面には脂肪の膜が張っている。秩序の崩壊は、常に静かに、そして不可逆的に進む。我々にできるのは、この救いようのない熱損失の過程を、せいぜい質の悪い冗談で塗り固めることくらいだ。次に来る時は、もう少しマシな熱力学的効率を誇る酒でも持ってきたまえ。例えば、安物のウィスキーだ。あれはいい。脳を直接麻痺させ、世界がどれほど無秩序で、どれほど醜い熱損失に満ちているかという現実を、一瞬だけ忘れさせてくれる。アルコールによる意識の霧散こそが、このエントロピー増大の世界に対する、唯一の、そして最も誠実な抵抗なのだから。
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